る女性として。……彼女の瞳、彼女の香り、眼を閉じてよりかかって来た彼女の心、それらは彼の胸の底まで泌み通っていた。而もその傍には、単なる一女性が立っていた。恋の対象として「彼女でなければならない。」ということを、今の場合になって、右か左かの分岐点に立って、彼ははっきり感じなかった。凡てが必然さを以て彼の頭にぴたりと来なかった。多くの罪をも踏み越して愛した信子が、ただ「女性」のうちの偶然の一人であろうとは、彼は今迄夢にも思わなかった。而もそれは、彼の心を益々信子に愛着させるのであった。偶然であるがために、必然の繋りがないために、今別れることは永久に失うことであった。彼は殆んど解く術のない矛盾に迷い込んだ。――憂悶の辺際《はて》に追い込まれた彼は、凡てを一つにまとめることが出来なかった。分離した二つの岡部、分離した二つの信子、それらに対する苦しい考え、それらが或は絡まり或は孤立して、彼を陰惨な渦巻きの底へ誘って行った。そして彼が最後につき当るものは、あれほどの打撃に小揺ぎもしない岡部と信子との間の繋鎖であった。圏外に投げ出された自分の孤独であった。――木下は窓際にもたれたまま、肩を震わして
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