えていた。
彼は椅子の上に身を落し、窓際にもたれ、熱い額を両の掌に埋めた。
――二つの岡部の姿が、彼の前につっ立っていた。一つは、親友としてのまた畏友としての岡部、彼の許に一身を托してきた岡部、長い病に衰えきって幾度か危い境に彷徨した岡部、……而も彼はその岡部に対して如何なることをしたか! 病床に於ける岡部の残忍な苦闘を想う時、彼は自ら戦慄を禁じ得なかった。然しその岡部の傍には、も一つの岡部がつっ立っていた。危険なる容態と酷薄なる苦悩とを通り越して、静に、何物も乱すことの出来ない静かな落付きを以て、冷かに周囲を眺めている岡部。……彼は宛も巨大なる岩石に向うような気がした。彼が如何に苛ら立ち、如何に苦しもうとも、その岩は平然として眼をつぶっていた。そしてその二つの岡部を繋ぐものは、僅かに、「もし僕が死んだら信子のことを頼む、」との一言だった。「互に愛してくれ、」との一言だった。而も、僅かにではあり、一言ではあったが、それが彼の胸をぐさりとつき刺していた。名状し難い悲痛な感情が、苦痛が、其処から黒い血のように湧き出してきた。――信子も彼の眼には、二つの姿となって映じていた。一つは、愛す
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