「おい、お寝み!」と彼は信子に云った。
 信子は、その声とその眼付とに、異常な何物かを感じた。「はい、」と答えて立ち上った。
 啓介は襖の外に注意を集中していた。物の気配が静に遠ざかっていった。廊下の板がみしりと軽い音を立てた。信子は便所へ行った。すぐに戻って来た。彼の様子をちらと眺めて、床にはいった。彼はなお廊下の方に気を取られていた。
 啓介には長い時間のようでもあれば、また僅かな間のようでもあった。再び何かの気配が廊下を伝って来た。彼の注意は鋭利に、病者特有の鋭利さに、研ぎすまされた。その何者かは、病室の前に来てぴたりと止った。静になった。襖がことりと一つ揺れた。押えとめられて却って喘ぎの音を立ててる、温い息が感ぜられた。それが数瞬の間続いた。啓介は俄に直覚した。疑う余地はなかった。彼は暫く躊躇した。それから眼をふさいで心を落ち付けた。そして云った。
「木下君、はいり給え。丁度眼がさめてるから。」
 三四秒の間、静まり返った。それからすーっと襖が開いて、木下がはいって来た。
 彼の顔は総毛立っていた。眼の光りが黒く冴え返って、荒々しいほど露《あら》わに覗き出していた。彼は室内を
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