ように返事をした。
「はい。」
それが余り程経てだったので、啓介はくり返した。
「もうお寝みよ。起きていなくてもいいから。」
信子は眼をくるりと動かした。
「寝たくないから、勝手に起きてるんですわ。」
啓介は黙ってまた眼を閉じた。彼女の心が最も悪い状態に在るのを彼は知った。責任が自分に在るような気がした。自責の念が益々深められていった。然し悔恨となっては現われなかった。ただ深い自己沈潜を助けるのみだった。彼は殆んど夢幻の境にまで沈んでいった。どん底に達したかと思うと、また一段と深い所が現われてきた。自分は存在してるという意識の底に、その仄白い明るみの底に、更に空虚な闇が湛えていた。その闇の中に覗き込むと、ただ茫として、怪しい幻が立ち罩めてるようだった。其処では個性が許されなかった。凡てが一つの大きな渦に融け込んでいた。彼は眼が眩むように覚えた。……はっと我に返ると、凡ての注意が一つ所に集められていた。彼はその急激な変化に、暫く息さえも出来なかった。やがて次第に何のことだか分ってきた。襖の外の廊下に何かの気配《けはい》がした。彼は凡ての注意を其処に集めた。あたりがしいんとしていた。
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