殆んど夢幻のうちに彷徨した。何を云われても彼は黙っていた。余儀ない場合には出来るだけ簡単な返事をした。もし、木下と信子とが何故にああなったかを考察したならば、彼の苦悶はそれほど残酷ではなかったろう。然し彼の頭はその「何故に?」ということに働きかけなかった。彼は結果の事実にのみぶっつかっていった。彼の顔の筋肉は硬ばって、額は暗い皺を刻んでいた。ただその心には、深い所から射す安らかな光りがあった。彼は落付いていた。深い安らかな心の光りで凡てを眺めた。
落ち付いた彼の心を乱すものは、ただ一つきり残っていなかった。それは先夜の自分の提議であった。木下に信子の未来を托さんとする提議であった。ああいうことをすべきであったか否かを、彼は自ら尋ねた。そして躊躇なく否と自ら答えた。自分の死後を自ら規定する権利、それは誰にもないのであると、彼は考えた。彼は激しい自責の念に襲われた。そして、その自責の念を掘り下げることによって、彼は益々深い所へ落付いていった。もし彼が何故にああいう提議をしたかと自ら尋ねたならば、彼は更に深い動乱に陥ったであろう。茲に在っては、彼の意識がその「何故に?」を逸したことは、却っ
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