はその明るみに縋りついた。上に浮び出ると、涙ぐましいばかりの生命の光りが漲っていた。すると、僅かな気分の揺ぎに、その光りがふっと陰《かぎ》っていった。過去の事実が巖として聳えていた。彼はまた無限の暗い深みへ陥っていった。斯くて彼は、先夜死の幻の暗い穴を脳裏に去来さしたように、闇と光りとの間を往来した。然し今投げやり投げ返されるのは彼自身であった。そして、殆んど律動的な残忍な上下動に身を任しているうち、彼は遂に一つのものに辿りついた。それは無限の底に身を落付けることだった。生きるということの光りを見捨てて、ただ存在するという仄かな明るみに、深い闇の底に何処からともなく射してくる明るみに、闇を安住させることだった。其処から外を眺めると、凡てが静かに、ほんとに静かに、じっと落付いていた。「信子!」と彼は呼んでみた。「木下!」と呼んでみた。何の反響も伝わらなかった。母の名を呼んでみた。静かだった。彼は手足を伸して安らかに横たわった。病室の空気も、今は親しくなつかしく思えた。――然し其処に達するまで、彼は魔睡から覚めて以来絶えず苦悩を続けた。或時は、病に衰弱しきった自分の精神に絶望した。或時は、
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