返しのつかない事実が、その背後に聳えていた。彼の頭の中には打ち消すことの出来ない印象が刻み込まれていた。
木下と信子との関係がどの程度まで進んだものであるか、彼は少しも知らなかった。然し背景となるべき雰囲気と事情とを考えて、ただ心と心との結ぼれに過ぎないことを疑わなかった。然しその心をこそ、信子の心をこそ、あれほど苛ら立ちながら彼は求めていたのであった。今その心を失ってしまったことを思うと、彼は堪らない寂寥に襲われた。信子との深い愛の日のことが思い出された。その一つの記憶の糸をたぐると、凡てのことが展開されてきた。敢然と肯定してはいっていった愛の生活、両親を捨てて家を飛び出した前後の事情、世に隠れて移り住んだ一室、絶えず胸に沸いてきた奮闘の力と信念、それらが……僅かな一撃の下に崩壊してしまった。而もそれは、二人が身を托した友人の手によって為された、自分の半身だと信頼していた彼女の手によって為された。彼は足場を失って無限の深みへ落ちてゆくのを感じた。そして今、陥った無限の底に達すると、何処からともなく仄かな明るみがさして来るのを知った。それは自分が存在してるというかすかな意識だった。彼
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