まで云ってしまうことが出来なかった。言葉を途切らして、唇を震わした。両手で帯の前の方を握りしめ、肱を張って、肩をすぼめ、顔を前方につき出して、黒光りのする眼で、窓の外の板塀を睥んでいた。信子は云い知れぬ恐怖に囚えられた。彼女は窓縁から飛び下りて、其処に立ち悚んでしまった。
 沈黙が続いた。木下はいつのまにか眼を沾ましていた。彼は俄に我に返ったように、つと手を伸して信子の手を執った。それを堅く握りしめながら云った。
「信子さん、許して下さい。私は、自分の魂が次第に醜くなってゆくのを知っています。浮び出ようとすればするほど、益々流の中に沈んでゆくような気がします。然し、私の心を信じて下さい。私は淋しいのです。この淋しさは、あなたには分らないかも知れない。岡部君を持ってるあなたには……。」
 木下は歯をくいしばった。そして倒れるように、今まで信子が掛けていた窓縁に腰を下した。
「私が悪いのです、私が!」と信子は叫んだ。
 彼女は木下の腕に縋りついた。木下は意識を失ったかのように、深く瞑想に沈み込んで身動きさえもしなかった。……突然、信子は激しい恐怖に震え上った。彼女は両手を握り合して、後退り
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