看護婦の荷物が取散されていた。「どうにでもなるがいい、」と彼女は思った。台所に立って行って、取って置いた日本酒を冷たいまま、眼をつぶってコップで飲んだ。頭と手足の先ばかりが熱くなって、背筋がぞくぞく寒くなった。三畳の低い窓縁に腰掛けて外を眺めた。木の芝生もない三尺ばかりの空地を距てて、すぐ眼の前に黒ずんだ板塀があった。牢屋にはいったような気がした。「馬鹿々々。」と自ら嘲る声が何処からともなく聞えた。
 彼女は小声で唄を歌い出した。カフェーに居る時覚えた流行唄《はやりうた》を初め歌っていたが、いつのまにか、女学校や小学校の頃習った唱歌になってしまった。自分の声に聞き惚れていると、自然に涙が出て来た。涙ぐみながら、幼い唱歌を歌いながら、足をやけにばたばた動かしていた。
 木下が其処に姿を現わした時、信子ははっと息をつめた。窓縁につかまったまま身体が氷のようになった。
「何をしてるんです、唱歌なんか歌って。」と木下は云った。
 信子は黙っていた。
「岡部君がよくなってゆくのが、そんなに嬉しいんですか。先日までは……。」
 木下は言葉を途切らした、そして眼を見張った。
「信子さん、あなたは酒を
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