るのでもなかった。啓介は静に寝ていた。木下は手荒く新聞を裏返した。暫くすると、またあちらこちら引っくり返した。啓介は静に寝ていた。木下は新聞を折り畳んだ。それからまた拡げた。啓介は静に寝ていた。
「君、」と木下は云った、「退屈だろう。新聞でも読んであげようか。」
「いや、あり難う。」と啓介は答えた。
「勿論この調子でゆけば、自分で新聞を読める位にはすぐになるだろうがね。」
それきり二人はまた黙り込んだ。
信子は堪らなくなって室から出て行った。
暫くすると、木下は云った。
「君はまるで夢中《むちゅう》だったね。」
「いやよく知ってる。」
「何もかも?」
「うむ、頓服をのむ以前のことは。」
「そうかなあ……。」
木下は皮肉な笑いを一寸口辺に漂わしたが、平然たる啓介の顔を見て、口を噤んでしまった。然し執拗にいつまでも病室に残っていた。
十三
信子はまた幻を見るようになった。後ろから蔽い被さってくる過去の暗い影ではなくて、前方を遮る冷たい鉄の扉の幻影であった。彼女は、啓介の病気が全快するかも知れないのをひたと胸に感じた。彼が大きい打撃から脱して平穏な状態に復したことは、
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