た。層をなして拡っているその木目を眺めていると、ゆるやかな快い波動が心に伝ってきた。揺藍の中に揺られてるような心地であった。頭の底にある遠いかすかな鈍痛が、それに調子を合した。手足の先が妙に重くて、意識の外に投げ出されたようにだらりとしていた。心の中に立ち罩めていた暗い靄が徐ろに晴れていった、遠くに、殆んど眼も届かないほど遠くに、一条の仄紅い光りがさしていた。彼はその光りに心の眼を向けた。縋りつくように見つめた。……生きるということが、生きてるということが、如何に嬉しいかを彼は知った。
 顧みると、信子が顔を俯向けながら坐っていた。油気の失せた髪がかさかさに乱れて、その下から死人のような艶のない顔が見えていた。啓介は瞳を定めた。額の皮膚が濡いを失って硬ばって居り、眼の下には黒い隈が出来、頬には深い筋がはいって、窶れた筋肉が一々妙に浮上っていた。そしてそのまま彼女はじっとしていた。
 啓介は一種の慄えを感じた。眼の奥が熱くなってきた。眼を閉じると、眼瞼の中が明るかった。きらきらする光りの点が無数に渦巻いた。眼を開くと、室内は朝の光りに隅々まで明るかった。
 信子が朝の仕度に立って行くと、
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