人に取次ぎますと、ではもう寝たらいいだろうと云ってくれました。私は涙が出ました。ほんとにお影様で……。」そして彼女は病人の寝顔をつくづくと眺めた。注射の時、病人は一寸眼を開いた。然しまた眼を閉じてしまった。二時間ばかりして雅子は帰っていった。「病人がそういうなら、余り側についていない方がいいだろうと、主人も河村も申すものですから。」と彼女は云った。帰る時に、病室の中と玄関とを、妙に慌《あわただ》しく眺め廻した。
啓介はそれらのことを少しも知らなかった。その晩九時頃に眠りから覚めた。重い頭痛がしていた。
「母は?」と彼は尋ねた。
「今日お午《ひる》からお出になりましたが、またお帰りになりました。よく眠っていらしたものですから。」と看護婦が答えた。
彼は頭痛を訴えた。看護婦が顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりを軽く揉んでくれた。彼はまた眠った。翌朝五時頃に眼が覚めた。気分が安らかだった。戸を開いてくれと云った。信子が立ち上って、雨戸を開け放した。
冬から春に移ってゆく、清い冷やかな朝の光りが、俄に病室の中に流れ込んできた。天井板の木目が、鮮かに浮出して見え
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