かける時も、今晩は泊るとお父さんに云って来ました。」
「いいえ、お母さん……。」啓介は涙の眼を瞬いた。「今日は帰って下さい。」
「何をあなたは考えてるのです? 何か気に入らないことでもあるのですか。云ってごらんなさい。あなたの云う通りにしますから。」
 啓介は何とも答えなかった。氷枕の上に頭をかすかに震わせながら、じっと眼を閉じた。雅子はその顔を覗き込んで、閉じた眼瞼から溢れて来る涙を拭いてやった。しまいには彼女の方が泣き出した。そして二人共黙り込んでしまった。
 看護婦が胸の湿布を代える時に、雅子は画室の方へ行った。彼女は河村と木下とに相談した。河村は、病人の言葉に従った方がいいと答えた。医者の言葉をくり返して伝えた。木下はなんとも云わないで考え込んだ。遂に雅子は帰ることにきめた。十一時頃近所の電話をかりて容態を知らしてくれるように、木下に頼んだ。
 七時半頃、頓服薬をのんで啓介がうとうと眠った後に、雅子は漸く立ち上って帰っていった。河村が自宅まで彼女を送ってやった。
 帰る時に、雅子は信子へ云った。
「ではお頼みします、お疲れでしょうけれどね。いろいろ気を悪くしないで下さい。」
 
前へ 次へ
全106ページ中72ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング