ように、自分の心も何物かに裏切られてはしないかという、漠然とした不安の念が寄せて来た。然し彼の瞑想は、その何物かの本体を探りあてようとする努力よりも、その何物かを抑えつけようとする努力の方に向いていた。
 野の間をぬけて、大きな銀杏の木のある人家の角を曲って、自分の家が向うに見える処まで来ると、彼はふと顔を挙げて思い出したように足を早めた。
 家にはいると、丁度信子が其処に顔を出した。彼女の窶れた顔に浮んでいる弱々しい微笑の影を見ると、彼は我知らず安心の情を覚えた。そしてそのまま画室に通った。彼が絵具箱や其他を卓子の上に置いていると、信子が扉口に佇んで彼の方を眺めていた。
「今日は如何《いかが》でしたの?」と彼女は尋ねた。
「駄目です。」
 そして彼が外套を脱いで其処に投り出す途端に、卓子の上の水差が引っくり返った。水は卓子の一部を濡らして床《ゆか》の上に流れた。信子は走り寄って、卓子の上の物を片附けた。
「いいですよ、」と木下は云った、「婆《ばあ》やがしますから。」
 然し信子はすぐに雑巾《ぞうきん》を持って来て拭き初めた。
 木下は病人の室の方へ行った。
 啓介は黙って彼の顔を見上
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