新らしくして来てくれない?」
「ええ。」と彼女は答えて、なお暫く坐っていた。それから氷嚢を持って立っていった。
 彼はまじまじと天井を眺めた。室の中は薄暗くなりかけていた。彼は心の中にさしている落付いた明るみを取逃すまいとするようにして、仄白い天井板に眼を据えていた。
 信子が氷嚢を取代えて戻って来ると、啓介は涙ぐんでいた。彼女が、氷嚢の紐を台木に懸けて彼の額に適度に当てがってくれる間、彼は眼を閉じていた。
「木下君はまだ帰って来ないか。」と彼は尋ねた。
「ええ、まだですわ。」
「この頃よく写生に出かけるようだね。」
「何でも、非常にいい景色を見付けたとか仰言っていらしたわ。」
 二人はそれきり黙っていた――看護婦が湯から戻ってくるまで。

     二

 木下正治は、絵具箱のカバンを肩にかけ、十五号大のカンヴァスを重そうに左の小脇に抱え、右手を外套のポケットにつっ込んで、首垂《うなだ》れながら、荒凉たる晩冬の野を帰って来た。兎もすると、彼の足は引ずり加減になっていた。自分の製作に対する焦燥と不満とを心の底に押えつけて、じっと考えに耽っていた。自分の製作が何物かに裏切られていると同じ
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