き廻っていらしたのですよ。病気さえ癒れば宜しいんです。何もかも私が承知していますからね。あなたは仕合せですよ。みんなでこうして……ほんとにあなたは仕合せですよ。」
彼女は涙をはらはらと膝に落とした。
「お母さん!」と啓介は叫んだ。
皆黙っていた。どうにも仕種がなかった。河村は氷嚢吊りの台木に片手でつかまっていたが、ひょいと立ち上って、木下と向い合って火鉢の側に坐った。看護婦はふと思いついたように、枕の氷を取り代えに立っていった。雅子は彼女の後を見送って、そのまま室の中を見廻した。信子が一人離れて坐っていた。信子は低くお辞儀をした。雅子も礼を返した。河村はその時、何か言葉を喉元まで出しかけたが、凡てに無関心なまでに深く考え込んでいる木下の顔を見て、口を噤んでしまった。看護婦は中々戻って来なかった。深い沈黙が落ちてきた。啓介は眼を閉じていた。
看護婦が氷枕を下げて戻って来ると、「あり難う、」と啓介は云った。
その言葉に河村は顔を上げて人々を見廻した。
「今日は実にいい天気ですね。」と彼は云った。「こんなだと、今年はわりに春が早いかも知れませんよ。私は春が一番好きです。家にじっとして
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