なずいた。
 木下はすぐに外出の用意をした。先ず丸の内の会社に、啓介の叔父の河村氏を訪ねた。それから上野の自宅に、河村氏と一緒に啓介の母の雅子《まさこ》夫人を訪ねた。

     十一

 約束の午後三時少し過ぎに、雅子は河村に連れられて、木下の家にやって来た。木下は二人を先ず画室の方へ通した。
「今朝からずっと落付いてるようです。」と木下は云った。
 雅子は終始伏目がちにして肩をすぼめながら、あたりに気を配ってるらしかった。真黒に染めた髪を小さく束ねて、縫紋の渋い色の羽織を着ていた。木下はその羽織に対して妙に心が落付けなかった。河村が煙草を取り出して火をつけた時、彼は云った。
「どうか病室の方へ。」
 河村は火をつけたばかりの紙巻煙草を、一口吸ったまま灰皿の上に捨てた。そして先に立って病室の方へ行った。前に二度来たことがあるので、彼は家の様子はよく知っていた。
 信子を病室に置いておかない方がいいだろうと木下は思っていたが、却って居る方がいいと河村はその朝云った。
 啓介は静に仰向に寝ていた。枕頭に看護婦がついていた。信子は室の隅に小さく坐っていた。
 雅子は室の入口に一寸立ち止った
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