であった。それは「凡ての場合」であった。否場合という言葉を許さない、あるがままの現実だった。その中に死という「一つの場合」が浮んでいた。
病に侵された彼の頭脳は二つの錯誤に陥っていた。彼の心に映じた生は、健康者のそれではなくて病者のそれであった。次に彼は、「凡ての場合」のために準備をせずに、「一つの場合」のために準備をしようとした。――彼は死の場合を見つめていた。終日口を噤んで静に寝ていた。珍らしく、木下を病室に引止めなかった、信子に対して温和だった。心が半ば闇に閉ざされていた。やがてその闇に呑み込まれる場合のために準備することは、却ってその闇から脱する途のように感ぜられた。彼は苦しくはなかった。「死」そのものに脅かされてはいなかった。「死に脅かされる場合」のために悩んでいた。そして堪らなく淋しくなった。何物かに縋りつこうとした。木下と信子との姿が遠くに立っていた。それを手近に引寄せたかった。眼をつぶると、気が遠くなるような重い後頭部の鈍痛から、暗い闇が襲いかかってきた。
九
朝から吹き出した風が、晩になると可なり激しくなった。夕方少し雨が降った。夜になって霽れた。湿
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