な暗い穴を恐れながら、それに心を惹かれていた。
 幾度も同じことをくり返しているうちに、彼の精神は疲労しつつ興奮していった。遂には、疲労の余り眠りに入り、興奮の余り眼覚めていた。夢とも現《うつつ》ともつかない境に長い間彷徨した。
 訳の分らない擾乱から彼がほっと我に返った時、室の中には信子が一人起きていた。いつのまにか看護婦と交代したものらしい。彼女は室の隅に眼を定めて、魂の脱殼のようにじっとしていた。毛の逆立った眉が真直に刷《は》かれて、其の下から黒い眼が覗いていた。窶れた頬に痙攣的な微笑のようなものを引きつらしていた。それらの顔立の上に乱れた束髪が大きな影を投げかけていた。……彼はその姿を見つめた。恐ろしくなった。「おい。」と呼んでみた。声は出なかった。再び「おい。」と呼んでみた。彼女は彼の方に顔を向けた。夢の中で見た女だという感じを彼は受けた。
「信子!」と彼は云った。取り失ったものに対する呼びかけの言葉だった。
 彼女は寄って来た。
「僕の手を握っていてくれ。」と彼は云った。
 その言葉は殆んど聞き取れなかった。彼女は彼の眼を見返した。そして意味を了解した。彼の手を握ってやった
前へ 次へ
全106ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング