彼はそれが気になり出した。呼んで来るように信子に云った。
「何か御用なの?」
「用はないが、隙だったら呼んできてくれないか。」
信子は立って行った。然し彼女は中々戻って来なかった。啓介には非常に長い時間のように思われた。
やがて木下は一人で室にはいって来た。信子は戻って来なかった。
「仕事の邪魔じゃないのか。」と啓介は心持ち眼を細くして尋ねた。
「いや、隙だ。」
「じゃ暫く話していってくれ給いな。」
然し別に話すこともなかった。二人は大した意味もないことを、ぽつりぽつり話し合った。しまいには黙り込んでしまった。それでも啓介には、木下が側についていてくれることが嬉しかった。種々な夢想を語り合った友、苦しみや喜びに共に心を痛め共に笑った友、自分の真の味方であった友、その友の姿を眼の前に持っているということは、何という喜びだろう。黙って顔を見合せているというだけで、しみじみと力強くなるような気がした。信子がもし其処に居たら、彼は恐らくその喜びを感じなかったであろう。然し今は、ただ距てない友の姿のみが彼の前に在った。何か憂わしげに思い耽ってる木下の顔も、彼には却ってなつかしかった。あたり
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