でたっても書けそうもありません。昨晩と今日と、私は雨の降る中を歩きながら、種々考えてみました。実際馬鹿げた努力を続けていたものです。……岡部君の云うのが本当です。あなたの云われることが本当です。」
 彼は言葉と共に頬の筋肉を震わしていた。彼女はその顔をじっと眺めた。
「ではどうなさるの?」
「何よりも私達は、……岡部君の病気が早く癒るようにしなければいけません。」
 その言葉は最も残酷に彼女の心を揺った。彼女は下唇をかみしめながら、木下の眼の中を覗き込んだ。
 木下は一歩退った。
「木下さん!」信子はそう叫んで、上半身から彼の方へ倒れかかって来た。
「岡部君を……。」と木下は云った。然しそれは、水に沈んだ者が再び水面に浮び出ようとする最後の努力であった。彼は、下唇を噛みしめて眼を閉じている信子の顔を見た。
 もたれかかって来る彼女の上半身を、彼は両腕に受け取った。

     六

 啓介の世界は劃然と二つに区別せられていた。一つは病室内の世界――其処では凡てが余りに明るかった。天井板の木目から、襖の模様、壁についてるかすかな傷まで、彼は残らず知りつくしていた。看護婦や信子や木下の一挙
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