一動、その動作を裏付ける感情、一として彼の眼を逃れることは出来なかった。他の一つは病室外の世界――其処では凡てが朦朧としていた。空が晴れているか曇っているかさえ、彼にはよく分らなかった。縁側の障子にはまってる硝子越しに垣間《かいま》見る空は、いつも陰鬱に夢のように彼には感ぜられた。寒暖、風の有無、それらは更に分らなかった。また画室や台所の有様は勿論のこと、すぐ向うの六畳の室の様子さえ分らなかった。皆がどういう顔をして何を話しているか、少しも分らなかった。病室の襖や壁や障子が、厚い鉄の壁ででもあるかのようだった。その鉄の壁の外部に在るものは凡て、視線と想像との届かない遠い距離の奥に逃げ込んでいた。そして壁の内部に在る凡ては、眩《めくら》むばかりの明瞭さを以て彼の眼に映じた。この恐ろしいほど透明な世界と恐ろしいほど曖昧な世界との対立が、絶えず彼を苦しめた。
 一室に禁錮せられた者の心に似ていた。劃然と範囲を定められた自分一人の世界の中に於て、彼の眼は益々執拗になっていった。用をする時の看護婦の手付きのうちに、彼女の心がそれに向いているか否かを彼は見て取った。診察する時の医者の取り澄した表情
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