はそれらのことに、老婆と二人きりの頃知らなかったそれらのことに、知らず識らず馴れてしまっていた。今それに気付くと、彼は自分が、やさしい女性の世話のうちに、如何に温く深く抱きしめられてるかを見出した。彼は信子の姿を眼前に描き出した。彼は病み臥してる岡部のことを想った。彼は深い寂寥に囚えられた。彼は唇を噛みしめながら枯れはてた樫と叢と芝生と陰欝な空との画面を眺めた。……彼は堪らない気になって、いきなりそれを真赤な色に塗りつぶした。
室の中にはいつのまにか電灯がともっていた。彼は画筆を其処に投り出して、まじまじと電灯の光りを仰いだ。彼は立ち上って窓の所へ行った。窓の扉を開くと、なお降り続いている雨脚が、淡い電灯の光りを受けて、すぐ眼の前に白く注ぎかかった。彼はぞっと寒気《さむけ》を背筋に感じて、窓を閉めた。そして煖炉の側の椅子の上に蹲った。
五
翌日も雨が降った。雪が雨に代ってしまったことは、やがて春が来るのを想わせるのであったが、その想いは陰鬱な明るみと冷たい雨とに取り囲まれて、却って粛条たる気持ちを人の心に与えた。
木下は朝から外出していた。信子は三度彼の画室に逃げ込
前へ
次へ
全106ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング