あちらへ参りますわ。」
木下は思わず椅子から立ち上った。彼女は足を止めた。二人は釘付にされたように一寸立ち竦んだ。それから彼女は一歩ずつゆるやかに足を運んで、次に足を早めて、室から出て行った。
木下は暫く其処に立ちつくしていた。憤激とも喜悦とも悲哀ともつかない云い知れぬ感情に、彼は胸を震わした。彼は倒れるように椅子に腰を落して、描きかけの画面を眺めた。「君の心の中に在るものが君の製作を裏切るのだ、」と云った岡部の言葉を思い出した。彼は身のまわりを見廻した。それから室の中を見廻した。信子の息吹きが至る所にあった。棚の上の石膏像には少しの埃もかかっていなかった。室の隅の筆洗盤は綺麗に磨かれていた。釘に吊してある外套の裾には少しの泥もこびりついていなかった。床《ゆか》は心地よく掃除されていた。花瓶には梅の枝が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]されていた。書物は棚の片隅に並べてあった。絵筆拭きの布が釘に下って乾いていた。煖炉の灰がすっかり取去られて水が適度に入れてあった。扉のわきには磨かれた靴が揃えてあった。凡ての道具が各々の場所に落付いていた。――彼
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