んだ。
朝、啓介は信子に云った。「木下君はどうしたんだ? 昨晩も夜遅くまで帰って来なかったし、今日も朝から出かけたりして。お前何か不快なことを云ったんじゃないか。」「いいえ、」と信子は答えた。然しその答えは真実だった。彼女にも木下の心がよく分ってはいなかった。前夜、木下が遅くなって帰って来る音を彼女は眠ったふりして聞いていた。それから長く眠れなかった。夜明け近くにうとうとして眼を覚すと、睡眠不足のため頭がぼんやりしていた。心は落付を失っていた。彼女は考えを纒めるために、画室に逃げ込んだ。
昼の食事を済した後で、彼女は暫く画室にはいった。
午後、彼女は吸飲《すいのみ》を取って啓介に含嗽をさした。うっかりしていた拍子に、吸飲の水を啓介の頬から蒲団へ少し垂らした。「いやに冷淡になったね、」と啓介は皮肉らしい調子で云った。横の方で看護婦が、乾いた湿布の布を畳んでいた。看護婦はちらりと眼を挙げて彼女を眺めた。彼女は啓介の言葉よりも看護婦の視線から、胸の奥に冷たい矢を受けた。夕食の仕度を口実にして、彼女は画室に逃げ込んだ。
過去の大きな影が自分の後ろにすっくと立っているのを、彼女はいつしか
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