たりに苛立たしい曇りを寄せた、そして云った。
「今のは冗談だよ。」
「何が?」
 彼は振向いた信子の視線を避けて、天井に眼をやりながら別のことを云った。
「お前はね、僕が看護婦の手に身体を任しているのを見て、一種の嫉妬に似た……。」
 彼はその言葉を云い終えなかった。名状し難い苦々《にがにが》しい忌わしい空気が、二人を囚えた。彼は引きつらした口の片角《かたすみ》をびくびく震わした。彼女は眼を大きく見開いて、輝きの失せた瞳をぼんやり空間に定めた。
 二人共黙っていた。
「もうお寝みよ。」と暫くして啓介は苛立たしい声で云った。
 信子は我に返ったように深い吐息をした。夜はしいんと更け渡っていた。彼女はも一度啓介の言葉を待った。
「寝ておしまいよ。」と啓介はやがてまた云った。
 信子は黙って立ち上った。そして看護婦の横にそっと自分の床をのべた。然し彼女は寝る前に、啓介の額の氷をみることを忘れなかった。啓介は黙り込んで彼女の手元を見ていた。

     四

 木下は画室の粗末な古椅子に腰掛け、両腕を組んで、描きかけの自分の絵を眺めた。樫の幹や叢は、幾度も絵具を塗り返されて、浮彫《レリーフ》の
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