いた。病室の中に逃げ込んだ。静かだった。
「どうしたんだ、つっ立って。」と啓介は云った。
 信子は片隅に坐った。そして、追いつめられたように肩をすぼめた。過去のことが凡ての重さで、彼女の後ろからのしかかってきた。何れへ行こうと自由だと考えていた彼女は、自分の身を繋いでいる眼に見えない多くの鎖を、愈々の時になってまざまざと感じた。既に一人の男に身を任したことのある女性のみが知る鎖だった。彼女の悩みは、頭の中だけのものではなくて、実質的のものとなった。呼吸の度に、心臓の鼓動の度に、うち揺いでいる自分の柔かな肉体を、彼女は着物を通して見つめた。その肉体に泌み込んだ男の息吹きが、まざまざと感ぜられた。永久に絶ちきれない鎖、消すべからざる絡印。それから脱するには身を殺すより外に途はなかった。
 啓介は一言も口を利かなかった。信子も黙っていた。そして彼女は、もう一歩も病室の外に出なかった。

     十六

 十一時、雅子が女中を連れてやって来た。
「入院するんですってね。」と彼女は云った。「もう動いても宜しいのですか。木下さんの電話が余りだしぬけなものですから、私は夢のような気がしました。それ
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