用はない筈です。」と木下は云った。「お慈悲の涙は流して貰いたくありません。……あなた達から見たら、私の魂は汚れて醜くなってるでしょう。然し私は、自分の魂の醜さから力を汲み取っている。凡てを呪ってやる。人生を呪ってやる。呪いながら自分の魂を黒く塗りつぶすことから、私は生き上ってゆく。私は淋しい。この底の無いような深い淋しさを、骨の髄まで喰い入るような淋しさを、私はあくまで自分のものとしてみせる。私は親友を失った。愛を失った。然し生きる力は失わない。私の魂が醜くなってゆくことは私が生きてゆく証拠だ。」
 木下は踵でくるりと廻った。それから卓子の上の帽子を取った。
「あなたは何を恐れているのです。何も恐れることはない。なるようになったのです。」
 木下は徐《ゆるや》かな足取りで大股に室から出て行った。信子は扉から壁へ沿って身をずらしながら、木下を通した。
 彼女はそのまま壁につかまって、石のように固くなった。暫く身動きもしなかった。と突然、幻をでも見るように室の真中を見つめた。それから俄に身を研して、画室から飛び出した。髪油のついた両手を拡げてやって来る高子と、廊下で行き合った。彼女は慴えて
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