。」
「もし信子さんが、君の手に戻りたいと云ったら、君は許してやるか。」
「今はその力が僕にはないような気がする。然しやがて許し得ると思う。」
「僕達は互に愛したのだ。」
「知っている。」
「君は先夜のことを覚えているのか。」
「覚えている。」
「あの言葉を取り消し給え。」
「僕は、あの言葉は云うべきものではなかったと考えている。然し、あれを取消しても消さなくても、結局同じことのような気がする。」
「なるほど君の云いそうなことだ。あの言葉で僕の心に烙印をおして、僕の心の傷を一層大きくして、それで復讐するつもりだろう。」
「何を云うんだ君は。」
「そして一方では、あの言葉から遡って、信子さんの罪を安価に見積ろうとするんだろう。」
「おい、低い声で云ってくれ給え。皆眠ってるんだ。」
「二人に聞かれるのが恐ろしいのか。」
「木下、君はどうしてそう悪魔のような物の云い方をするのか?」
「そして君は、神のような物の云い方をしてるというんだろう!」
 二人は黙り込んだ。互の間に越え難い溝渠があるのを、二人共感じた。……啓介の性格は、より強くてまたより退守的であった。木下の性格は、より弱くてまたより突進的であった。而も、強くて退守的な啓介の心は、深い宗教的な雰囲気に包まれていた。弱くて突進的な木下の心は、苛ら立った現実的な雰囲気に包まれていた。二人はいつのまにか、遠い距離を距てて立っていた。
「木下、」と啓介は云った、「僕はもう何にも云うまい。ただ自分を恥しいと思う。……信子の心に自由な途を歩かしてやろうじゃないか。」
「そして君は、ただ待ってるというのか。」
「それより外に仕方がない。」
「それが最も安全な勝利の方法だろうさ。」
「何が?」
「そうさ、僕と信子さんとの間は唇と唇との交渉にすぎない。然し君と信子さんとの間はもっと深い交渉だからね。」
「何だと!」啓介は思わず叫んだ。
「君は夢想家さ。そして最も実際家だ。」
「木下、君の心は何処まで汚れてゆくんだ! 何処まで僕をふみ蹂ろうとするんだ!」
「ふみ蹂るのは君の方だ。」
「僕はもう何も云わない。自分の罪は自分で背負うつもりだ。」
「宜しい。君は罪を背負うがいい。僕は苦しみを背負ってやる。そして……。」
 ――信子は眠っていなかった。……彼女は酔っていた。酔った心にも、初め啓介の様子から強い衝動を受けた。床にはいってから、あ
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