たりの様子を窺っていた。木下が室にはいって来た時、彼女は名状し難い戦慄を覚えた。息を凝して、二人の対話に耳を傾けた。深い夜の静寂の中に、対話は低い声で交わされていった。その短い低い言葉が、陰惨な恐怖を彼女に与えた。声が少し高くなる度に、彼女ははね起きようとした。然し恐怖の情に圧せられて、身を動かすことも敢て為し得なかった。木下が交渉云々のことを云った時、彼女は胸の真中を射貫かれたような戦慄を感じた。「何だと!」と啓介が叫んだ時、もう堪えられなくなった。いきなり手を伸して、傍に眠っている看護婦を揺り起した。
高子はむっくり起き上った。木下と啓介とが何か云い合ってるのを見た。彼女はその一言で話題の如何なるものであるかを察した。
「どうなすったのです?」と彼女は声を立てた。「議論なんかなすって。この夜中に!」
二人は口を噤んだ。高子は床の上に居座《いずま》いを直した。深い沈黙が室の中を支配した。啓介は、先の太い木下の手指を見つめていた。木下はそれを痙攣的に震わした。そして、ゆるやかな殆んど聞き取れない位の声で云った。
「岡部、僕はほんとの苦しみにぶつかるためにやって来たのだ。それが、君を苦しめに来たような形になってしまった。許してくれ。」
然しその調子には少しもしみじみとした所はなかった。暗い渦の中から湧き出る声のようだった。啓介は眼を伏せた。木下は立ち上った。彼は黙って室を出て行った。
木下の足音が廊下の向うに消え去ってしまうと、信子はつと起き上った。啓介がじっと寝ていた。
十五
翌朝、木下は婆やと同時に起き上った。その前にも一度起き上って画室に行ったが、黎明前の冷たい夜の空気に、彼は震え上った。煖炉に火を焚こうとしたが、あたりが余りに静まり返っていた。誰にともなく――必ずしも岡部や信子に対してばかりでなく――物音が憚られた。彼は帰って来て、また蒲団を被った。昨夜からの苦しい悪夢のような考えが、機械的に連続して、頭が惑乱のうちに汗ぼんできた。手足の先は冷えきっていた。婆やの起き上る音が聞えると、彼は初めて我に返ったような心地がして、むっくり起き上った。
彼は画室にはいった。煖炉に火を焚いた。窓掛を上げて透し見ると、外は一面に仄白かった。濃い霧が深く湛えて、方向もなく静に流れ出してるらしかった。煖炉の火が、窓硝子の外に、濃霧の中に、真赤に映って燃
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