「おい、お寝み!」と彼は信子に云った。
信子は、その声とその眼付とに、異常な何物かを感じた。「はい、」と答えて立ち上った。
啓介は襖の外に注意を集中していた。物の気配が静に遠ざかっていった。廊下の板がみしりと軽い音を立てた。信子は便所へ行った。すぐに戻って来た。彼の様子をちらと眺めて、床にはいった。彼はなお廊下の方に気を取られていた。
啓介には長い時間のようでもあれば、また僅かな間のようでもあった。再び何かの気配が廊下を伝って来た。彼の注意は鋭利に、病者特有の鋭利さに、研ぎすまされた。その何者かは、病室の前に来てぴたりと止った。静になった。襖がことりと一つ揺れた。押えとめられて却って喘ぎの音を立ててる、温い息が感ぜられた。それが数瞬の間続いた。啓介は俄に直覚した。疑う余地はなかった。彼は暫く躊躇した。それから眼をふさいで心を落ち付けた。そして云った。
「木下君、はいり給え。丁度眼がさめてるから。」
三四秒の間、静まり返った。それからすーっと襖が開いて、木下がはいって来た。
彼の顔は総毛立っていた。眼の光りが黒く冴え返って、荒々しいほど露《あら》わに覗き出していた。彼は室内をくるりと見廻した。それから、其処に置かれてる炬燵によりかかるようにして坐った。
「まだ起きてたのか。」と啓介は云った。声が自然に震えた。
「用があるんだ。」と木下は答えた。
啓介は黙っていた。
「君は、」と木下は云った、「僕のやったことを卑劣だと思ってるね。」
啓介は静に首を振った。
「つまらないお世辞は止し給え。僕自身も卑劣だと知ってる。然し……僕は君達の心が知りたいんだ。」
「おい、低い声で云ってくれ給え。」と啓介は注意した。調子はもう落付いていた。「二人共眠ってるから。」
暫く沈黙が続いた。
「僕は今のうちに、解決しておきたいんだ。」と木下は云った。「中途半端な状態は堪えられない、然し病気の君と争うつもりではない。ただ君の答えがききたいんだ。」
「何の答えが?」
「どういう解決を望んでるか……。」
「解決の鍵は信子の心が握ってる。」
「然し君にも何かの希望はあるだろう。」
「ない。」
暫く沈黙が続いた。
「では僕は君に尋ねる。一々本当の所を答え給え。」
「うむ。僕はごまかしはしないつもりだ。」
「もし信子さんが、僕に一生を任せると云ったら、君はそれでもいいのか。」
「いい
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