れらから暗い影が発散してくるような気がした。
二人共黙っていた、看護婦が室を出ていっても黙っていた。看護婦と殆んど入れちがいに、信子がはいって来た。彼女は襖を開いて一寸躊躇した。それから静に襖をしめて、火鉢の側に坐りながら炭をつぎ初めた。
先夜のこと、それ以前のこと、飛び飛びの事件を、啓介は思い出した。それらは、静かな時の連続のうちに、険しい巖のように立ち並んでいた。まわりには激しい旋風が荒れ狂っていた。啓介は落付いた心で眺めやった。それは既に過ぎ去った暴風雨であった。暴風雨の後姿から受けるような、深い底知れぬ静安の気が彼の心に泌み込んできた。もはや何にも云うべき言葉が残っていなかった。――木下も黙っていた。
暫くして、木下は突然顔を上げた。
「信子さん、新聞がきていましたか。」と彼は云った。
「はい。」
「済みませんが持って来て頂けませんか。」
「此処へ!」
「ええ。」
暴力とも云えるようなものが、木下の言葉や顔付に籠っていた。……信子は立ち上った。そして新聞を持って来た。
木下は其処に寝そべって、新聞を開いた。啓介は静に寝ていた。木下は新聞の上に眼を落した。然し別に読んでるのでもなかった。啓介は静に寝ていた。木下は手荒く新聞を裏返した。暫くすると、またあちらこちら引っくり返した。啓介は静に寝ていた。木下は新聞を折り畳んだ。それからまた拡げた。啓介は静に寝ていた。
「君、」と木下は云った、「退屈だろう。新聞でも読んであげようか。」
「いや、あり難う。」と啓介は答えた。
「勿論この調子でゆけば、自分で新聞を読める位にはすぐになるだろうがね。」
それきり二人はまた黙り込んだ。
信子は堪らなくなって室から出て行った。
暫くすると、木下は云った。
「君はまるで夢中《むちゅう》だったね。」
「いやよく知ってる。」
「何もかも?」
「うむ、頓服をのむ以前のことは。」
「そうかなあ……。」
木下は皮肉な笑いを一寸口辺に漂わしたが、平然たる啓介の顔を見て、口を噤んでしまった。然し執拗にいつまでも病室に残っていた。
十三
信子はまた幻を見るようになった。後ろから蔽い被さってくる過去の暗い影ではなくて、前方を遮る冷たい鉄の扉の幻影であった。彼女は、啓介の病気が全快するかも知れないのをひたと胸に感じた。彼が大きい打撃から脱して平穏な状態に復したことは、
前へ
次へ
全53ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング