やがて停滞した容態に打ち勝って、回復の曙光を暗示するものであった。その回復の曙光が、木下の方へぬけ出んとする彼女の行手を遮った。また木下の姿が、啓介の回復を通じて未来へぬけ出んとする彼女の行手を遮った。何れへ向っても、堅い鉄の扉が前方を塞いでいた。迂路を取ることの出来ない直線的な彼女は、眼をつぶってその扉にぶっつかっていった。冷い戦慄が全身に流れた。現在の直接印象に強く支配せらるる彼女は、前後を通観する批判の眼を持たなかった[#「持たなかった」は底本では「持たなった」]。彼女は出来るだけ、木下と二人きりになるのを避けた、啓介と二人きりになるのを避けた。
 一人でじっとしていると、いつのまにか考えは切端《せっぱ》つまった所へ落ち込んでいった。真直に眼を挙げるのが恐ろしかった。伏目がちの横目で、じろじろあたりを見廻した。家の内外は、平素と少しも異らなかった。六畳の室には、茶箪笥の上にいつもの通り茶器や菓子盆が並んでいた。画室には見馴れた繪がずらりと懸っていた。裏口には、洗濯盥が転がっていた。啓介の敷布や木下の襯衣などが物干竿にぶら下っていた。日が照ったり陰ったりした。三畳には婆やの所持品や看護婦の荷物が取散されていた。「どうにでもなるがいい、」と彼女は思った。台所に立って行って、取って置いた日本酒を冷たいまま、眼をつぶってコップで飲んだ。頭と手足の先ばかりが熱くなって、背筋がぞくぞく寒くなった。三畳の低い窓縁に腰掛けて外を眺めた。木の芝生もない三尺ばかりの空地を距てて、すぐ眼の前に黒ずんだ板塀があった。牢屋にはいったような気がした。「馬鹿々々。」と自ら嘲る声が何処からともなく聞えた。
 彼女は小声で唄を歌い出した。カフェーに居る時覚えた流行唄《はやりうた》を初め歌っていたが、いつのまにか、女学校や小学校の頃習った唱歌になってしまった。自分の声に聞き惚れていると、自然に涙が出て来た。涙ぐみながら、幼い唱歌を歌いながら、足をやけにばたばた動かしていた。
 木下が其処に姿を現わした時、信子ははっと息をつめた。窓縁につかまったまま身体が氷のようになった。
「何をしてるんです、唱歌なんか歌って。」と木下は云った。
 信子は黙っていた。
「岡部君がよくなってゆくのが、そんなに嬉しいんですか。先日までは……。」
 木下は言葉を途切らした、そして眼を見張った。
「信子さん、あなたは酒を
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