た。層をなして拡っているその木目を眺めていると、ゆるやかな快い波動が心に伝ってきた。揺藍の中に揺られてるような心地であった。頭の底にある遠いかすかな鈍痛が、それに調子を合した。手足の先が妙に重くて、意識の外に投げ出されたようにだらりとしていた。心の中に立ち罩めていた暗い靄が徐ろに晴れていった、遠くに、殆んど眼も届かないほど遠くに、一条の仄紅い光りがさしていた。彼はその光りに心の眼を向けた。縋りつくように見つめた。……生きるということが、生きてるということが、如何に嬉しいかを彼は知った。
顧みると、信子が顔を俯向けながら坐っていた。油気の失せた髪がかさかさに乱れて、その下から死人のような艶のない顔が見えていた。啓介は瞳を定めた。額の皮膚が濡いを失って硬ばって居り、眼の下には黒い隈が出来、頬には深い筋がはいって、窶れた筋肉が一々妙に浮上っていた。そしてそのまま彼女はじっとしていた。
啓介は一種の慄えを感じた。眼の奥が熱くなってきた。眼を閉じると、眼瞼の中が明るかった。きらきらする光りの点が無数に渦巻いた。眼を開くと、室内は朝の光りに隅々まで明るかった。
信子が朝の仕度に立って行くと、啓介は静に身体を動かした。寝返りをしてみたり、仰向に寝てみたりした。動く度毎に、手足の指先まで、細かい神経の網の目が眼覚めてゆくのを感じた。
「僕はどの位眠っていました?」と彼は看護婦に尋ねた。
「一昨日《おととい》の晩からですわ。」
「一昨日の晩から!」と彼は口の中でくり返した。然し時の観念がぼやけていた。同じように連続した時間のみが存在していた。ただ大きな空虚が、大きな中断が、眠りのうらに過しただだ白いものが、ぽかりと口を開いていた。その中に怪しげな姿がつっ立ってくるようだった。彼はそれから眼をそむけた。遠くが見えてきた。青い空、広い野原、静まり返って並んでいる木立、何ものをも肯定する生の息吹き……。彼は大きく息をした。肺尖のあたりがきりきりと痛んで、痰が喉にからまった。彼は顔を渋めた。看護婦が痰吐を取ってくれた。痰を吐き出してしまうと、胸が軽くなった。
木下が室にはいって来た。
「よく眠ったね。」
「ああ。」
それきり黙ってしまった。
彼は木下の全身に対して、訳の分らない反撥を覚えた。長い髪の毛、黒い光りを放ってる眼、先の太い手指、だぶだぶに拡ってるメリヤスの襯衣の袖口、そ
前へ
次へ
全53ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング