であった。それは「凡ての場合」であった。否場合という言葉を許さない、あるがままの現実だった。その中に死という「一つの場合」が浮んでいた。
病に侵された彼の頭脳は二つの錯誤に陥っていた。彼の心に映じた生は、健康者のそれではなくて病者のそれであった。次に彼は、「凡ての場合」のために準備をせずに、「一つの場合」のために準備をしようとした。――彼は死の場合を見つめていた。終日口を噤んで静に寝ていた。珍らしく、木下を病室に引止めなかった、信子に対して温和だった。心が半ば闇に閉ざされていた。やがてその闇に呑み込まれる場合のために準備することは、却ってその闇から脱する途のように感ぜられた。彼は苦しくはなかった。「死」そのものに脅かされてはいなかった。「死に脅かされる場合」のために悩んでいた。そして堪らなく淋しくなった。何物かに縋りつこうとした。木下と信子との姿が遠くに立っていた。それを手近に引寄せたかった。眼をつぶると、気が遠くなるような重い後頭部の鈍痛から、暗い闇が襲いかかってきた。
九
朝から吹き出した風が、晩になると可なり激しくなった。夕方少し雨が降った。夜になって霽れた。湿っぽい寒い風が雨戸に音を立てた。婆やは早くから寝た。木下も、その日静かだった啓介の様子に少し安心して、早く床についた。
啓介は眼を覚していた。風の音に聞き入っていた。頭の調子がぴんと張りつめて、凡ての事象が冴え返っていた。
「信子!」と彼は呼んだ。
「はい。」
「木下君は?」
「もうお寝《やす》みなすったようですわ。」
暫く沈黙が続いた。
「信子!」と彼はまた呼んだ。
「はい。何か御用?」
「木下君を呼んでくれ。」
「でも、もう寝んでいらっしゃるから、明日になすったら。」
「いや今すぐに用があるんだ。話したいことがある。呼んでおいで!」
思いつめた鋭い光りが彼の眼に籠っていた。信子は高子と顔を見合した。そして躊躇した。「気に逆らわない方がいいかも知れません、」と高子は囁いた。
信子は木下を呼びに行った。木下は床にはいったまま眼を開いていた。彼は信子の姿を見ると、すぐに事情を直覚した。いきなり飛び起きて着物を着た。
「私何だか気掛りで……。」と信子は云った。
「大丈夫、安心していらっしゃい。」と答えて彼は彼女の手を握りしめた。
病室に行くと、啓介は逃げてゆく幻を追うように、天井
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