な暗い穴を恐れながら、それに心を惹かれていた。
幾度も同じことをくり返しているうちに、彼の精神は疲労しつつ興奮していった。遂には、疲労の余り眠りに入り、興奮の余り眼覚めていた。夢とも現《うつつ》ともつかない境に長い間彷徨した。
訳の分らない擾乱から彼がほっと我に返った時、室の中には信子が一人起きていた。いつのまにか看護婦と交代したものらしい。彼女は室の隅に眼を定めて、魂の脱殼のようにじっとしていた。毛の逆立った眉が真直に刷《は》かれて、其の下から黒い眼が覗いていた。窶れた頬に痙攣的な微笑のようなものを引きつらしていた。それらの顔立の上に乱れた束髪が大きな影を投げかけていた。……彼はその姿を見つめた。恐ろしくなった。「おい。」と呼んでみた。声は出なかった。再び「おい。」と呼んでみた。彼女は彼の方に顔を向けた。夢の中で見た女だという感じを彼は受けた。
「信子!」と彼は云った。取り失ったものに対する呼びかけの言葉だった。
彼女は寄って来た。
「僕の手を握っていてくれ。」と彼は云った。
その言葉は殆んど聞き取れなかった。彼女は彼の眼を見返した。そして意味を了解した。彼の手を握ってやった。
彼は彼女の冷たい掌に自分の手を与えながら、一種の戦慄を感じた。以前愛のうちに自分と一つに溶け合った彼女、自分の一部であった彼女、――今自分の手を握りながら石のように固くなってる彼女。彼は、彼女が恐れているのを見た、恐れて看護婦を呼び起したく思いながら、敢てなし得ないでいるのを見た。彼は苛ら立ってきた。彼女が恐れて震えているのが感じられた。……そしてそのまま彼は手を任せ彼女はその手を握っていた。
夜が明けて、信子が一寸室から出て行った時、啓介は起き上ろうとした。高子がそれを引止めた。木下がやって来た。啓介は耻しくなった。おとなしく頭を枕につけて、眼をつぶった。すると凡てが、何とも知れない凡てが、行きづまってしまった。行きづまった心で彼は、薬を飲んだ、重湯と牛乳とを飲んだ、注射を受けた。ただ一つの場合が、死という一つの場合が、あるがままの現在のうちに口を開いていた。彼はその場合のことに考えを集めた。
生きるということは問題ではなかった。毎日同じような昼と夜、日々の区別さえもつかない一様な時の連続、張りきった限定された明るみ、――病室の空気のみが彼を囚えていた。それが彼にとっては生
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