答えた。
「ああ言ったよ。」
「そんなら、あたしを抱いて頂戴。さあ、しっかり抱っこして……。」
 南さんの膝にとびのって、その胸に顔を埋めた。だが、そそっかしいにも程がある、あぶなく手紙を取落すところだった。おれはそれを手伝って、オーバーの内ポケットに納めてやった。
 彼女は飛びのいた。
「もういいわ。あたし、南さんの心臓の音をきいちゃったから。すてきよ、ラブ・ユウ、ラブ・ユウ……といってるわ。きいてごらんなさい。」
 そして力任せに一人の女給を南さんの方につきとばした。
「あぶない。……登美子さん、どうかしてんのね。」
「してるわよ。あたし嬉しいんですもの。なんだか……なんだか……へんなのよう……。」
 歌いながら、向うへ行ってしまった。
 座がちょっと白けたが、白けたまま静まって、それが却って酒の味を増したかのようだった。南さんはにこにこして、チーズや水菓子を女給達に奢ってやり、すっかり腰をおちつけてしまっていた。そして元気でもあった。ただ、いつまでもオーバーを着たままでいるところを見ると、やはりどこか身体のしんが冷えていたのだろう。
 もうこれですんだ、という気持で、おれは退屈になって、室の中を散歩してやった。登美子は三人の若い会社員のところで、はしゃいだ口を利いていた。あちらこちらに客があった。だが、おれは一体、このカフェーなるものが嫌いだ。天井にはいろんな色彩を張り渡してるくせに、方々の隅がへんに薄暗く、植木までどっさり持込んである。そしてあちこちの、金網がないだけの動物の小屋みたいなところで、男や女がひそひそと話をしている。女たちは血色がわるく皮膚は荒れ、男たちはどれもこれも、疲れたような、退屈なような、或は物欲しそうな顔をしている。第一、この緑素の少いしなびた植木がいけない。これを見てると、大抵の者は憂欝になるだろう。同じカフェーでも、見通しのきくぱっと明るい広間ならまだいい。明るくなくっても、ダンスホールなら動きがあるから面白い。おれは二階のあるホールで、手摺に両肱をついて見下すのが好きだ。
 その時、いい考えが浮んだ。おれは往来に面した窓の方へいって、下の街路を眺めた。裏通りで、人通りは少く、薄暗かったが、それでもいくらか面白い。そして眺めてるうちに、その窓口の上で、ついうとうとと居睡ってしまった。
 随分時間がたったらしい。おれは眼をさますと、もう酒にもくたぶれてる南さんのところへいって、帰りを促した。
 南さんは立上った。かなりよろけていた。そして真直に階段口のところまで行ったが、そこで立止って、ちょっと考えて、静かに室の中を見廻そうとした。その顔が少し向き返った時、横手のボックスで……「湧くは胸の血潮よ、たたえよ我が春を、」というところで歌声がやんで、ぱっと、グラスが飛んできた。瞬間に、おれが飛び上って叩き落さなかったら、南さんの頬っぺたを傷つけたかも知れない。グラスは下に落ちて砕けた。その音は小さかったが、なにかしら、異様な気配が室の中に流れた。と同時に、頓狂な笑い声がして、登美子がとんできた。酔ってふらふらしていた。それをふみしめて、眼を異様に光らしている。
「さようなら。握手しましょう。」
 南さんは云われるままに握手をして、そして平然と階段をおりていった。登美子の姿はもう見えなかった。南さんはふらりと外に出た。

     四

 南さんが家に帰りついた時は、十二時をだいぶ過ぎていた。
 彼は門柱によろけかかって、後ろ手でやたらにベルの釦を押した。暫くたって、静かに門扉が開かれた。出て来たのは、女中ではなくて、山根さんだった。南さんはびっくりしてつっ立った。
「ただ今……。すみません。」
 丁寧にお辞儀をしたひょうしに、よろよろっとして、そのままの調子で家の中にはいっていった。そして茶の間で外套をぬぎすてると、洋服の膝を折ってきちんと坐ったが、上半身はふらふらしていた。彼は眼をつぶった。
 山根さんは戸締りをして戻ってきた。――おれは眼を見張った。山根さんはふだん着ではなく、大島の着物羽織をき、万年青《おもと》構図の緑がかった落着いた帯をしめ、髪もきれいにとかしていた。おれは不思議に思って、家の中をかけ廻って、彼女の履物をしらべ、風呂敷をしらべ、荷物をしらべたが、外出したらしい様子はなかった。すると、南さんを待つために彼女が服装をかえたというのは、これは重大問題だ。――彼女は端然といずまいを正して、南さんにお茶をすすめていた。
「なにも、あなたが起きていなくったって……。」と云いながらも、南さんは眼をつぶったままだった。
「女中は朝が早いから時間がくれば寝かさなければなりません。」
 南さんはふらりとお辞儀をした。
「あなただって、一家の主人であるからには、帰らない時には帰らないと、家《うち》に
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