、泣きたくなってくるんだ。自分が呪わしく、汚らしく、そして淋しくなって、もういてもたってもいられなくなる……。自分が悪いんだと、自分を責める。そして結局、彼女に忠実であろうと決心する。酒もやめ、煙草もひかえ、あらゆる執着をたち、自分を清く澄み返らせて、彼女に恥じないだけの者になろうと決心する。だが、その決心は、この次から……この次からと、順々に先に延されて、やはり僕は酔っ払い、ふしだらの限りをつくすんだ。」――おれは眉をひそめた。――「そういうわけで、こんどきりだということが、却ってふしだらになってしまう。そして昨晩みたいなことになる。ほんとに済まなかった。許して呉れ給え。どんな駄々をこねたか、よく覚えていないが、さんざん君を困らせたらしい。そしてあんなことになっちゃって……。僕は今朝、あのホテルのてっぺんで、全くやりきれない気持になった。君が黙って帰ってくれたのも、却ってよかった。自分が惨めになればなるほど、僕にはいいんだ。それで決心が実行出来る。自分を溝《どぶ》の中にぶちこみたいくらいだ。僕は君に感謝してる。みんな許してくれ。ほんとに君に感謝してることで、許してくれ。そして……朗かに握手しよう……。そのために、今日やって来たんだ。分ってくれるだろうね。」――南さんが真剣なだけに、おれもさすがに冷やりとした。――「僕は君を……愛してはいないが、好きなんだ。あのまま別れるのも嫌だから、感謝してることをはっきり云って、何事も水に流して、気持よく握手しよう。」
登美子は石のように固くなっていた。南さんが手を差出したのも知らん顔で、ビールをあおった。
「ほんとに感謝していらっしゃるの。」
強い視線をちらと向けた。
「ほんとだ。」と南さんは自ら頷いた。
「あたしも、感謝していますわ。」
氷のような言葉だった。そして彼女は立上った。
「飲みましょう。あたし、酔っちゃうわよ。日本酒もってこよう。」
彼女は向うの女給たちに呼びかけた。
「いらっしゃいよ。南さんから、さんざんお惚気きかされちゃったわ。きいてごらんなさい、素敵よ。」
南さんはもう、快い――錐で痒いとこを突刺されるような感じらしい――微笑を浮べていた。
おれは頭をかいた。どうもはっきりしないんだ。いろいろなことはよく分るが、それがみんなばらばらでまとまりがつかないし、南さんの話にしたところで、恋人なんて一体何のことだか。だが、訳の分らないちぐはぐなところが、実は肝腎なんだろう。他の女給たちもやってきて賑かになり、南さんもけろりとして冗談口をききだしたし、蓄音機も先程からじゃんじゃん鳴り出し、客もふえてきた。おれも酔っ払うとしようかなと考えた。どうです、と南さんに囁いてやると、南さんはにやりと笑った。気色のわるい笑い方だ。頭の大部分が酔いしびれて真中にぽつりとさめてるところがあるような様子だ。
それにしても、登美子はあれからちょっと出てきて、たて続けに酒をのんだきり、どこかへ行ってしまった。おれは待ちくたびれて、何をしてるのか見にいってみた。
向うの、ボックスの奥に、ただ一人ひっこんで、彼女は鉛筆をなめていた。顔を真赧にしていた。その前の書箋をのぞきこんで、ははんとおれは思った。
彼女は書いていた――
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あなたが私に感謝していらっしゃるように、私もあなたに感謝しております。ばかばかしく感謝しております。――(そこで彼女はつかえている。おれは助言してやった。彼女は書いた。)――私はあなたから特別にお金を頂いたことはありません、昨夜も、だから、対等に感謝してよいわけです。あなたは卑怯です、悪魔みたいです。――(おれは苦笑した。だが彼女がまたつかえたので助言してやった。)――恋人があるのに、よくもたくさんの女が好きになれますのね。私も、恋人はいないけれど、みんな好きになりましょう。それとも、みんな憎んでやりましょうか。でも、御安心下さい。あなたを好きになっても、憎んでも、決してあなたにつきまといはしませんから。――(私は一人で淋しく……と彼女が書きだしたので、おれはびっくりして、それをすっかりぬりつぶさして、助言した。)――お金にもならないのに、誰がつきまとうものですか。あなたはその恋人とやらを、安心して愛しておあげなさい。私はその人の顔に、唾をひっかけてやります。
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彼女は鉛筆を置いて考えこんだ。涙ぐんでるらしい。あぶない、と思っておれはせき立てた。彼女は書箋を封筒におしこんで、封をするのも忘れて、馳けだしていった。
南さんは二人の女給を相手に飲んでいた。そこへ登美子はとびこんだ。
「南さん、あたしを好きだと云ったでしょう。いやしくも、好きだと云ったでしょう。ほんとに云ったでしょう。」
南さんはきょとんとして、言下に
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