たって、そりゃあ構いませんとも。もう未練がないんですからね。こっちは朗かで自由だ、先様は先様だ、それだけのことです。思い通りのところに出たでしょう。だから、決心次第だと云ったじゃありませんか。これからだって……。」
 その時、おれは舌をぺろりと出して、更に大事なことを囁こうとしたが、あいにく、扉を叩く者があった。なおも一度叩いて、紫の上っ張をきた女がはいって来た。小さなお盆の上に、小銭を少しと、勘定の受取書とを持っていた。南様と名前まで書いてあった。南さんは腑におちない眼付でそれを眺めた。
「昨晩のおつりでございます。」
 女が出ていってからも、南さんは小首を傾げながらお盆を見ていた。それから残りのビールを飲んでしまって、立上った。
 廊下の突当りにエレベーターがあったが、南さんはわざわざ階段をおりていった。初めてのホテルらしい。じろじろあたりを眺めながら、七階から一階までおりてゆき、少々てれた顔をして、帳場の男に、私は南だがもう帰ります、といやに丁寧な口を利いて、手ぶらの身体をひょいと表にとび出した。
 表に[#「 表に」は底本では「表に」]出て彼は、そのホテルの高い建築を仰ぎ眺め、それから外套の襟に※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を埋め、没表情な顔付で、銀座の方に歩きだした。足がふらふらしてるのも気につかないらしく、憂鬱に考えこんでしまっているのだ。
 そんなのは、おれは嫌いだ。
「さて、どうします。」
 何の反応もなく、ぼんやり歩いているだけだった。
 少しけしかけてやろうかと思ったが……いやおれにはもっと面白いことが残っていた。南さんはあとでまたすぐにつかまえることにして、そこの、掘割の橋の上で別れて、おれは駈けだした。

     二

 おれは山根さんの様子を見にいった。
 おれの頭には、南さんと山根さんとの間の先夜の滑稽な場面が浮んでいた。おれはこの二人の童話めいたものを組立てておいたのだが、それがどうやら失敗に終ったらしい。どうもおれの腑におちないことが沢山あるようだ。――南さんの細君が死んでから、細君の伯母さんの山根さんが、南さんのところにやってきて、七つになる子供正夫の世話から、家事万端の面倒をみることになった。伯母さんといっても、まだ四十歳の未亡人で、金があって孤独で閑で、ぼんやり日を暮してた人だから、丁度適役だった。南さんが再婚する
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