鳶と柿と鶏
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)捕《と》る

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       一

 丘の上の小径から、だらだら上りの野原をへだてて、急な崖になり、灌木や小笹が茂っている。その崖の藪に、熊か猪かと思われるようなざわめきが起り、同時にわっと喚声があがって、一人の青年が飛び出して来、次で子供が三人飛び出して来た。
 吉村はびっくりして、小径につっ立っていた。
 見ると、青年はたしかに李永泰である。無帽で、運動シャツ、学校の教練ズボンのお古らしいのをつけている。三人の子供は村の者らしい。李は吉村に気がつかないのか、子供たちとふざけながら、片手で栗の実をもてあそんでいた。
 吉村がじっと見ていると、やがて先方でもその視線を捉えたか、李は吉村の方をすかし見たが、ほうというように口をあけて、野原をつっきり走って来た。
「吉村先生ですか。こんなとこに、どうしていらしたんです。」
 随分久しぶりな筈だが、そんなことはどうでもよいのであろう。吉村が此処に来てふのが、ただ不思議らしい。
 一週間ばかり前から、急な仕事をもって、三週間ばかりの予定で、その海辺の粗末な宿屋に来てることを、吉村は微笑みながら話した。
「あんなとこで、仕事なさるのですか。」
「どうして。」
「あすこは、つまらないでしょう。」
 その口振が、どうやら、小説家などという者はいつも華かな雰囲気にばかり住んでるものだと、そういう風なので、吉村はただずばりと云ってやった。
「あすこは、秋になると、安直でいいよ。」
 気持がはっきり通じなくて、眼をしばたたいてるのへ、吉村はたたみかけた。
「君はまた、どうして此処へ来てるんだい。」
「僕ですか、別荘の監督です。」
「かんとく……。」
「ええ。志田さんの別荘、ご存じありませんか。」
 真顔で云ってるのかどうか分らなかったが、よく聞いてみると、志田さんの家族の人たちがその夏来ていて、東京へ帰って行く時、李は雑用の手伝いに来たが、そのまま当分、別荘番のところに居残ってるものらしかった。
「おーい、みんなやるよ。」
 李は振向いて、草原で遊んでる子供たちの方へ、手の中の栗を空高く投げやった。秋の午後の陽に栗の実がきらきらと光った。
 草の中から栗の実を拾ってる子供たちを残して、吉村と李は海岸の方へ降りていった。
「実は、野心がありました。」と李は云うのであった。「僕は水泳がへたです。何事でも、上達して損はないでしょう。それで、水泳も上達したいと思って、ここに、志田さんの奥さんのお許しで、監督に残ったのですが、だめでした。九月のなかばすぎになると、海の水は冷たくて、身体にいけませんね。それで、水泳より山にいって、栗を取る方が面白くなり、木登りは上手になりました。」
「木登りも、その、野心の一つかい。」
「あとで、そうなりました。」
 そして李も笑ったが、ふいに、うまい柿を御馳走するし、紹介する人もあるから、是非ついて来いと云い出した。
「柿はいいが、紹介の方は許してくれよ。僕は仕事に来てるんだからね。」
「ええ、分っています。綺麗な女の人ですよ。先生に逢いたがっていました。」
 独りで勝手に呑みこんでいるのである。吉村と其他で逢ったのはその日が初めてだし、逢いたがってるもないものだ、恐らくは李が好きな女ででもあろうかと、吉村はすぐに小説家らしい想像をしながら、苦笑をもらした。
 半農半漁の人家の聚落の間をぬけて、もはやどこもひっそりとしてる別荘地の方へはいり、その出外れ近いところで、李は足を止めて云った。
「ちょっと待って下さい。……困ったなあ。」
「どうしたんだい。」
「先生、裏からはいるんですよ。」
「同じじゃないか。別荘なら、裏も表も大してちがやしないよ。」
「そうだった。全くそうです。」
 いやに感心して、また歩き出したが、すぐその先の、四つ目垣の木戸を押しあけてはいって行くのである。
 吉村はおや、と目を見張った。志田さんとかの別荘へ行くものだと思っていたのであるが、そこはたしかに、上山君枝の家の裏手にちがいなかった。垣根の中のすぐそこに、低く枝を拡げた二本の柿の木が、赤い実を一杯つけていた。李はその柿の木に歩み寄り、手の届く枝を引き撓めておいて、物色しながら幾つかの実をもいだ。
「こちらからいきましょう。」
 柿を持って、表の芝生の庭の方へ廻ってゆくのだった。
 吉村は躊躇しながら、それでも多少の好奇心も覚えて、わざと後れながらついていった。
 縁側で、もう李の声がしていた。
「今日は、私の先生を連れて来ましたから、柿をすこしたくさん貰いました。豪い人ですから、子供と一緒にはなりません。名前はご存じでしょう、吉村先生……あの、むつかしい小説ばかり書いて、自分でも困ってる人です。御紹介しましょう。」
「吉村……なんという人なの。」
「吉村清志……あのこないだも……。」
 李がなにか饒舌ってる時、君枝はちょっと小首をかしげがちに、片手をかるく頬に、そして片手で鬢の毛をかきあげる素振りをして、それで李の方へ表情を隠しながら、庭に少し距ってる吉村の方へ、眼を二つ三つ大きくまたたいてみせた。黙っているようにとの合図らしかった。
 だが、そのちょっとした悪戯よりも、彼女の素振りのうちに、吉村は意外なものを発見した。肺を病んで、神経質で、痩せて、骨立って、顔色も浅黒く、そればかりか、日常の言語は、へんに精神的だがぽきりと棒ぎれのようだし、挙措動作も、はきはきしてるがぎごちなく、謂わば凡てに女性的な濡いと曲線とが乏しい彼女なのだが、その時の彼女の素振りには、おのずから流れ出た子供っぽいものがあったのだった。その意外な発見に、吉村はなにか虚を衝かれた気持で笑顔も浮ばず、自然と初対面のような態度で、近づいていった。
 李はすぐに紹介しはじめた。
「吉村先生です。……こちらは、上山君枝さん、たいへん文学が好きなかたで、いえ、女流文士で、私の先生です。」
「まあ、たいへんなことになりましたね。いつのまにか、女流文士で、李さんの先生で……。」
 吉村が一人笑って、云った本人の君枝もまた李も笑わなかった。
 君枝はナイフや皿を取寄せて、柿をすすめながら、李との初対面のことを話すのだった――
 或る日、夕方、君枝が縁側に腰掛けて雑誌を見ていると、垣根の外から、ボールがはいったから取らして下さい、と子供の声がした。お取りなさい、と君枝は答えた。裏の木戸から人がはいって来る様子だった。それからだいぶ暫くして、もうそのことを忘れた頃、一人の青年が走って来た。手に柿を持っていた。あまり美しい柿だから、ちょっとさわってみると、もう熟して、おいしくなっている。だから、僕たち、一つずつ貰いました。どうぞ下さい。とそう云うのである。眉から眼から鼻立へかけてきりっとした白皙の顔で、それがどこかのびやかなところがあり、それに言葉がぶっきら棒なのがおかしく、(勿論これだけは李の前では彼女は話さなかったが、)何よりも、柿を既に貰ったと云いながら下さいと云うのがおかしく、ええどうぞと彼女はたのしく答えた。すると青年は云った。僕たちは四人だが、一つずつ貰うつもりで、五つもいでしまった。一つ余るから、これは返します。うまい柿だから、食べてみて下さい。そしてこちらから持って来てでもやったかのように、縁側に柿を一つ置いて、走って行ってしまった。――それがきっかけで、時々、村の子供を二三人つれて、三つ四つずつ、柿を取りに来るようになった。懇意にもなったというのである。
「なるほど、李君の面目躍如たりというところだね。」
 吉村は愉快そうに云ったが、李は別に悄気るでもなく得意がるでもなく、平然としていた。
 柿を食べてから三人で、海辺を少し歩いた。
「先生、お仕事は、お捗りになりまして。」
 先刻のことも忘れて、君枝はそんなことを聞くのだった。だが、李は感じているのかいないのか、吉村と君枝とが前から識ってる間であるばかりか、此処でも既に往来してることが、態度や会話に明瞭に現われても、一向気に留めてる風もなかった。

       二

 君枝は吉村の宿を訪れるのを遠慮していたらしく、吉村が最初に訪れた後、一度訪れて来、それからちょっと庭先に来たきりだったが、其後は、李と二人で、しばしば吉村の宿に遊びに来たり、散歩に誘いに来たりした。その地で吉村は、ただがむしゃらに、原稿紙に文字を埋めることにかかっていて、構想や夢想に耽ってる場合でなかっただけに、次第に、二人へのおつきあいの時間が惜しまれてきた。
 吉村がこちらに来て上山君枝を訪れたというのも、実は病気見舞かたがた、といっても彼女の肺患は軽微なもので、まあ謂わば、その心境打診のためもあったのである。君枝の良人の正彦は吉村の旧知で、君枝が随筆風な或は小説風なものを書き綴るようになってから、吉村さんにでも見て貰ったらと口を利いたのが正彦だった。既にその頃から、彼等夫婦の間は面白くゆかなかったらしく、君枝が肺を病んで海辺の別荘に来てからは、正彦は相当な財産があるにまかせて放埓になり、或る恋愛問題にまではまりこんでいた。この恋愛問題については、吉村と上山は明らさまに話し合ったことはなかったが、既に君枝にまでうすうす知れてることが二人の間に了解されていたのである。危い瀬戸際だということが、吉村にはっきり感ぜられ、自分の尽すべき途はないかとまで考えていた。
 然るに、君枝に逢ってみると、やはり、手掛りのつけようもないという気持を新たにするの外はなかった。正彦の行動を君枝はかなりよく知ってるらしく、こんなことを云うのだった。
「あの人も、お酒ばかり飲んで、気の毒な人だと思います。」
 それも、自分のような病弱な妻を持って気の毒だというのではなく、身を持ち崩しかけてる人だという冷静な批判で、それが良人に対する妻の言葉なだけに、吉村は肌寒い思いがした。肌寒いと云えば、何かにつけて君枝にはそういうところがあった。書いた文章にもそれが現われていた。一体、すぐれた文章なり作品なりが書ける女は、その容姿とか動作とか言葉とか、どこかに女性らしい色艶があるものだということが、吉村の持論だった。顔の美醜や、肉附の多少や、声の清濁や、行儀作法、そういうものとは全く別な、何か自然的な女性的な柔かな香りとでも云えるものがあり、そうした雰囲気を濃く立てる者ほどすぐれた文章が書けるのであり、文章は謂わばその雰囲気から萠え出るのである。とそう吉村は観ていた。勿論、多少の例外はあり、また偉大な創作などについては別問題だが、普通の婦人の普通の文章などについてのことである。然るに君枝は、かなり美貌の方ではあるが、吉村の所謂女らしい雰囲気にひどく乏しかったし、その文章も吉村の持論を裏付けるようなものだった。
 君枝の心境を打診する手掛りも得られず、彼女自体にも興味が持てず、ただ時間を取られるだけなので、吉村は凡てを後のこととして、仕事を真正面に押し立て、出来る限り宿の室に引籠った。然し宿屋の庭まで先方からよく散歩に来たし、大抵李が一緒だったし、李には吉村は一種の愛情が持てるのだった。
 夕食後など、三人で磯辺を歩いたりすると、へんに話がちぐはぐになった。君枝はすぐに、文学や思想の問題へ話を持ってゆくし、李は貝殻や魚類や樹木や雲の色などに話を持ってゆくし、話し手の男女の性を倒錯したようなその話の間に吉村は挟まり、両方から彼へばかり話しかけてき、彼はただ返事をするだけにしておいた。十月になりかけて、浜にはもう散歩の人影もなく、夕陽を受けた海は赤いが、微風は肌にしみる心地がされた。
 吉村は平たい小石を拾って、海面でみずきりをやった。李もそれをした。水面に石を十回跳ねさせることは至難だった。李は殊に下手だった。
 ふいに、君枝が笑いだした。吉村がまだこれまで彼女
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