に聞いたことのないような朗かな笑いだった。振向いてみると、石を投げる李の恰好がおかしいというのである。注意してみると、なるほど、李は大きく腕を振り廻しはするが、投げるとたんに、肩口からほうり出す恰好になるのだった。
「李さんたら、まるで赤ん坊みたいよ。」と云って君枝はまた朗かに笑った。
李は吉村をまねようとして、その赤ん坊みたいな動作を何度も繰返した。
その折の君枝の珍らしい朗かな笑いが特別に吉村の心に残ったほど、いつも平凡な散歩にすぎなかった。
吉村は朝から机に向っていたが、頭が疲れてくると、午後など、丘の方へぶらりと出て行った。丘の中腹の小径を辿ってゆくと、初めて李に出逢った野原のところへ出る。それから少しゆくと、丘の先端で、先方の丘との間に盆地をなしてる畑地が目下に見え、右手は海に展けている。
そこの、藪影の草の上で、日向ぼっこをしてるかのように蹲って、雑誌など見てる李を、吉村はよく見かけた。
二度目に逢った時、李はにこにこして、吉村の問いに答えるのだった。
「鳶を捕《と》るんです。」
「え、鳶を……捕れるかね。」
「捕れるつもりです。」
彼が説明するところによると、餌をつけておいて、小鳥がそれをつっつけば、上からぱっと網がかぶさる、あの仕掛の少し大きいのを、向うの畑のなかに設けてある。但し相手が鳶だから、うまく被さるかどうか分らないが、その代り、丁度首をつきこむくらい網の目が大きい。餌は鰯である。
「へえー、鳶が魚を食うかね。」
「動物園の鳶は魚を食べています。」
明瞭な答えに吉村は苦笑した。
だが、鳶がかかったらすぐに馳け出していくつもりで、彼は見張りをしてるのだった。相手は猛禽だからさすがに不安なのであろうか。
「だが、鳶なんか捕って、一体なににするんだい。」
「ただ生捕ればよいのです。」
それきりで、李は空を仰いだ。
空には、鳶が二羽舞っていた。青く晴れ渡ったなかに、或は高くまた低く、二羽の鳶は寄ったり離れたりしながら、殆んど羽ばたきもせず、両翼を真直に拡げて、ただ浮び動き、舞ってるのだった。
「眺めてる方がいいじゃないか。」
「ええ。」
「捕らない方がいいじゃないか。」
「ええ、捕らないでも、よいのです。」
わざわざ穽を仕掛けたというのに、甚だ頼りない返事だった。
二羽の鳶はいつまでも舞っていた。その舞い方は全く蒼空という感じだった。宙にふわりと浮いて而も翔ってるからであろうが、やがて一羽が、ゆるく羽ばたきだしたと見るまに、高く高く、蒼空のうちに昇ってゆき、他の一羽もそれに随い、山の彼方に消えていった。
「先生、柿をたべにいきましょう。」
鳶のあとを見送ってぼんやりしてる吉村へ、李はふいに呼びかけて、立上って歩きだした。それから声を低めた。
「鳶のこと、上山さんには、黙っといて下さい。」
「なぜだい。」
「びっくりさしてやりたいんです。」
捕れるものかと吉村は思ったが、李の言葉をそのまま取って、微笑ましい気持になった。そして君枝のところまでついて来た。
君枝の庭には、裏口に近い一隅に、黒い鶏が二羽飼ってあった。植木屋が黒い鶏の卵は特別に病人によいといって、小屋から鶏まで世話してくれたのだとか、君枝は云っていたが、それが、シャモの雑種なので、吉村は君枝に対するのと同じように親しみが持てない気持だった。ただ雄鶏の方は、黒羽の上に少し首筋にかかってる赤羽が、金色に光って綺麗だった。
李はその鶏の囲いを開いて、鶏を呼びながら連れてきた。鶏は広い芝生のなかを少しかけ廻り、縁側のところまで来て、投げやられた柿の皮をつついたりした。
「鶏のうちで、シャモが一番いかもの食いです。」と李は吉村に説明してから、君枝の方へ云った。「毛虫、まだいますか。」
「そうね、いるかも知れないわ。」
庭の片脇の大きな椿の木へ行って、李はしきりに見上げていたが、やがて巧みに登っていった。
君枝も下駄をつっかけてその方へ行った。
「どう……。あぶないわよ。」
上の方でがさがさやっていたところから、ふいに声がした。
「それ、ほうりますよ。」
「いやあ、だめよ、だめよ。」
びっくりするような甲高い声をあげて、君枝は走って逃げた。逃げながら笑っていた。
ぱらぱらと、青葉のついてる小枝が落ちてきた。ちょっと静かになって、中程の大きな枝に、李はぶらりと両手でさがり、あ、あぶない、と叫んで君枝が胸を押えた時には、李はもう地面に飛びおりていた。
コッコッコッコ……呼ばれて鶏が走ってゆき、椿の葉について虫を食べてるのを、李は満足そうに、君枝は安心したように、眺めてるのだった。
吉村は煙草を吸いながら縁端に腰掛けていた。椿の木の下から逃げだし、危いと叫んだ時までの君枝の様子が、珍らしいもののように眼に映ったのである。それは全く普通の女の動作にすぎなかったが、茶をのむ時の手附からちょっとした身振までが、へんにぎくしゃくした直線的な君枝であるだけに、普通の動作が却って目立ったのである。先日、初めて李と一緒に来た時の素振までも思い出された。先日は虚を衝かれた思いだったが、此度はなんとなく楽しく、彼女のために悦んでやりたい思いだった。
このぶんでいったら、彼女もだんだんよくなるだろうと、吉村は考えた。勿論それは病気のことではないし、何がどうよくなるのか彼にも分らなかったが、とにかく明るい気分が懐かれるのだった。
吉村は仕事を急いだ。仕事がすんだら二三日ゆっくり三人で遊び廻ってみたかった。
そうしたところへ、全然意想外なことが持上った。
ある夕方、食後の散歩に、三人で丘の方から街道へおりかかる時だった。
街道を、彼方から、正服の巡査と労働者らしい男とが、肩と肩をくっつけるようにして歩いて来た。双方から次第に近づいて、男は黒のジャケツに地下足袋で、どうやら半島人らしいと見分けられた。二人の姿は七八木の杉の木立に隠れたが、そこからまた現われかけたとたんに、男は二三歩走りだし、それを片手の捕繩で引戻されたものか、両腕をひろげ横向きになり、そこへ巡査の足払いが利いて、ばったり地面へ倒れた。倒れたが、すぐ四つ匐いになり、突然、吼えるような喚くような声で叫びだした。襟元を捉えて引起されかけても、彼は必死に大地へしがみつくような恰好で、その声は明らかに泣き叫びとなった。泣き叫びながら、片手と両足とで地面に※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いた。
自転車での通行人が立止り、村から人が走り出て行った。そしていつしか男は叫び声を呑み、じっと顔を伏せ、此度は両手を後ろに縛られながら、巡査の先に立って、人々の間を歩いて行った。それが、吉村たち三人のすぐ前をも通りすぎた。
後を見送って、しばらく無言で歩いた時、ふいに、君枝が李に尋ねた。
「あの男がさっき叫びだしたでしょう、あれどういう意味ですか。」
あまりに場合を得ない言葉だった。やや返事がなかった。
「僕は知りません。」
「別に意味はないでしょう。」と吉村も殆んど同時に云った。
「あの抵抗も無意味ですわね。……でも、卑怯ですわ。」
返事がなく、彼女はなお云い続けた。
「先生、そうお思いになりません。言葉の内容は民族によって大変ちがいますでしょう。」
吉村があやふやな返事で打消そうとしてるのを、彼女はお構いなしに考えを続けた。
「あの男だって、捕えられておいて、どうせ空巣ねらいか掻払いか、そんなことでしょうが、引き立てられてゆくところを、逃げ出そうとするなんて、卑怯じゃございません。また支那人なんか、なんでも、見当り次第のものを持ってゆこうとしますが、声をかけられると、そこに黙って置いていきますでしょう。これだって卑怯ですわ。けれど、その卑怯だという感じは、日本人だけのものかも知れませんし、支那や朝鮮にもやはり卑怯という言葉はございましょうし、結局のところ、言葉の意味というか、内容というか、それが違うのじゃないかと思われますの。民族の血の問題でございますわね。」
「そんなこと云ったら、外国人同士は話が出来なくなりますよ。」と吉村は笑ってしまおうとした。
「ええ、本当の話は出来にくいと思います。翻訳にしましても……。」
そして彼女は翻訳の話にはいっていったので、吉村はほっと息をついた。絶対に翻訳のむずかしい作品もあり、また比較的容易い作品もあるが、然し要するに完全な翻訳というものは不可能に近いという悲観論に、吉村はいい加滅相槌をうっていた。考えてみると、吉村自身、ちょっと外国文学を日本語に和訳したことがあるのだった。それはよいとして、彼女はまた李の方に尋ねかけたのである。
「あの男が叫んでた言葉は、ほんとにどういう意味でしょうね。」
もう吉村も李も返事をしなかった。そのまま消えた言葉は、なにか残忍な執拗なものを跡に残した。
宿に帰っても、吉村はそのことが変に気にかかった。
三
その翌日、夜になって、李が一人で吉村を訪ねて来た。
「明日、東京に帰ります。」と李は云った。
その顔を、吉村はじっと見ながら、彼に対して自然と心が開けるのが嬉しく、すぐに云い出した。
「昨日の、あのことだろう。そう気にしなくてもいいじゃないか。」
「気にはしていません。」
そして李はちょっと微笑した。
「損をしたという気がします。」
「へえー、損をしたって、分らんね。」
「よく考えてみると、半月ばかり損をしました。なんだか、上山さんが好きだったから……恋愛じゃありませんよ、ただ好きだったから、うかうか遊んでるうちに、勉強の方を、半月ばかり損をしていました。」
そして李はまた微笑した。
「それに気がついたというんなら、やはり昨日のことを気にしてるんじゃないか。君にも似合わないね。」
「いえ、ちがいます。こうですよ。僕は上山さんが好きでした。鳶を捕ろうとしていたのも、上山さんが鳶を飼ってみたいと云ったからです。先生の邪魔になると思ったが、上山さんを誘ってよく来ましたのも、上山さんと一緒にいたかったからです。御免下さい。」
「そんなの、一種の愛情じゃないか。」
「いえ、ちがいます。あの人、頭がよいでしょう。それにごまかされたんですね。一緒に遊ぶのが嬉しかったんです。ところが、あの人は、実は、頭がよいどころか、下等ですね。昨日、あの時、じっと僕の様子ばかり見ていました。先生は呑気だから気付かれなかったでしょうが、僕をじっと窺っていました。その視線を、僕は全身に感じました。ひがみではありません。あの人から見れば、朝鮮人はみな同じものだということになるようです。卑怯とかなにか、そういう言葉のことではありません。人間がみな同じになるらしいです。例えば日本人の乞食を見て、日本人はよその残り物を平気で食べるのかと、あらゆる日本人に云ったとします。腹が立つよりも、そんなことを云う人……そんな風に考える人を、下等だとは思いませんか。」
「下等というより……物が分らないんだね。」
「そうです、物が分らない、人間というものが分らないんです。」
吉村はそれに同感された。殊に乞食の話は胸にこたえた。
「それにしても、すぐ東京に帰らなくったって……近いうちに僕も帰るんだし、それまで待たないか。」
「東京でまた伺います。ただ、僕は、下等なあの人が好きで、半月も損をしたのが、残念です。腹を立ててやしませんよ。けれど、なにかはっきり、意思表示をしたいです。」
「そのため、すぐここを引上げるのかね。」
「そうでもありません。意思表示をして引上げたいですが、方法を考えてるところです。」
「それよりか、逆に、鳶でも生捕って、進呈して引上げるんだね。」
「ええ、鳶……鳶はいいですね。」
ぽつりと云われたその言葉が、なんだか淋しい響きだった。李はなにか空想するような眼付で、しばらく黙りこんだ。
やがて、どうしても明朝早く東京に帰るという李を送り出して、吉村は室に寝ころびながら、いろいろ彼のことを考え、また君枝のことなどを考えてるうちに、ふと、彼等二人の間の淡い……恐らくは無意識的な情愛とでも云え
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