方へ歩きだした。
「李さんじゃないのでしょうか。」
弱々しい声の響だった。吉村は答えなかった。ただ李のことをきくと、急に用が出来て東京へ呼び戻されることになったとかで、昨日の夕方、お別れにちょっと寄ったきりだそうだった。
「まあ、李君が何かに怒って、或は名残りを惜んで、あんなことをしたのだと、しといてはいけませんか。」
君枝はもう興奮もさめて李のことを偲ぶらしく、黙って眼をしばたたいた。
その眼がちょっと涙にうるんでるように見えたのを、吉村は、小説家のばかな癖だと自ら咎めて、空の方へ眼をやった。空には、高く、朝日のなかに、もう鳶が一羽舞っていた。
「そうだ、朝露にひえた柿はひどくおいしいそうだから、ひとつ下さいよ。」
吉村はちょっと君枝のそばを避ける気持で、柿を取りに行った。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字4、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「知性」
1939(昭和14)年11月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年5月6日作成
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