然るに、君枝に逢ってみると、やはり、手掛りのつけようもないという気持を新たにするの外はなかった。正彦の行動を君枝はかなりよく知ってるらしく、こんなことを云うのだった。
「あの人も、お酒ばかり飲んで、気の毒な人だと思います。」
 それも、自分のような病弱な妻を持って気の毒だというのではなく、身を持ち崩しかけてる人だという冷静な批判で、それが良人に対する妻の言葉なだけに、吉村は肌寒い思いがした。肌寒いと云えば、何かにつけて君枝にはそういうところがあった。書いた文章にもそれが現われていた。一体、すぐれた文章なり作品なりが書ける女は、その容姿とか動作とか言葉とか、どこかに女性らしい色艶があるものだということが、吉村の持論だった。顔の美醜や、肉附の多少や、声の清濁や、行儀作法、そういうものとは全く別な、何か自然的な女性的な柔かな香りとでも云えるものがあり、そうした雰囲気を濃く立てる者ほどすぐれた文章が書けるのであり、文章は謂わばその雰囲気から萠え出るのである。とそう吉村は観ていた。勿論、多少の例外はあり、また偉大な創作などについては別問題だが、普通の婦人の普通の文章などについてのことである。然るに君枝は、かなり美貌の方ではあるが、吉村の所謂女らしい雰囲気にひどく乏しかったし、その文章も吉村の持論を裏付けるようなものだった。
 君枝の心境を打診する手掛りも得られず、彼女自体にも興味が持てず、ただ時間を取られるだけなので、吉村は凡てを後のこととして、仕事を真正面に押し立て、出来る限り宿の室に引籠った。然し宿屋の庭まで先方からよく散歩に来たし、大抵李が一緒だったし、李には吉村は一種の愛情が持てるのだった。
 夕食後など、三人で磯辺を歩いたりすると、へんに話がちぐはぐになった。君枝はすぐに、文学や思想の問題へ話を持ってゆくし、李は貝殻や魚類や樹木や雲の色などに話を持ってゆくし、話し手の男女の性を倒錯したようなその話の間に吉村は挟まり、両方から彼へばかり話しかけてき、彼はただ返事をするだけにしておいた。十月になりかけて、浜にはもう散歩の人影もなく、夕陽を受けた海は赤いが、微風は肌にしみる心地がされた。
 吉村は平たい小石を拾って、海面でみずきりをやった。李もそれをした。水面に石を十回跳ねさせることは至難だった。李は殊に下手だった。
 ふいに、君枝が笑いだした。吉村がまだこれまで彼女に聞いたことのないような朗かな笑いだった。振向いてみると、石を投げる李の恰好がおかしいというのである。注意してみると、なるほど、李は大きく腕を振り廻しはするが、投げるとたんに、肩口からほうり出す恰好になるのだった。
「李さんたら、まるで赤ん坊みたいよ。」と云って君枝はまた朗かに笑った。
 李は吉村をまねようとして、その赤ん坊みたいな動作を何度も繰返した。
 その折の君枝の珍らしい朗かな笑いが特別に吉村の心に残ったほど、いつも平凡な散歩にすぎなかった。
 吉村は朝から机に向っていたが、頭が疲れてくると、午後など、丘の方へぶらりと出て行った。丘の中腹の小径を辿ってゆくと、初めて李に出逢った野原のところへ出る。それから少しゆくと、丘の先端で、先方の丘との間に盆地をなしてる畑地が目下に見え、右手は海に展けている。
 そこの、藪影の草の上で、日向ぼっこをしてるかのように蹲って、雑誌など見てる李を、吉村はよく見かけた。
 二度目に逢った時、李はにこにこして、吉村の問いに答えるのだった。
「鳶を捕《と》るんです。」
「え、鳶を……捕れるかね。」
「捕れるつもりです。」
 彼が説明するところによると、餌をつけておいて、小鳥がそれをつっつけば、上からぱっと網がかぶさる、あの仕掛の少し大きいのを、向うの畑のなかに設けてある。但し相手が鳶だから、うまく被さるかどうか分らないが、その代り、丁度首をつきこむくらい網の目が大きい。餌は鰯である。
「へえー、鳶が魚を食うかね。」
「動物園の鳶は魚を食べています。」
 明瞭な答えに吉村は苦笑した。
 だが、鳶がかかったらすぐに馳け出していくつもりで、彼は見張りをしてるのだった。相手は猛禽だからさすがに不安なのであろうか。
「だが、鳶なんか捕って、一体なににするんだい。」
「ただ生捕ればよいのです。」
 それきりで、李は空を仰いだ。
 空には、鳶が二羽舞っていた。青く晴れ渡ったなかに、或は高くまた低く、二羽の鳶は寄ったり離れたりしながら、殆んど羽ばたきもせず、両翼を真直に拡げて、ただ浮び動き、舞ってるのだった。
「眺めてる方がいいじゃないか。」
「ええ。」
「捕らない方がいいじゃないか。」
「ええ、捕らないでも、よいのです。」
 わざわざ穽を仕掛けたというのに、甚だ頼りない返事だった。
 二羽の鳶はいつまでも舞っていた。その舞い方は全く蒼空という感じ
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