だった。宙にふわりと浮いて而も翔ってるからであろうが、やがて一羽が、ゆるく羽ばたきだしたと見るまに、高く高く、蒼空のうちに昇ってゆき、他の一羽もそれに随い、山の彼方に消えていった。
「先生、柿をたべにいきましょう。」
鳶のあとを見送ってぼんやりしてる吉村へ、李はふいに呼びかけて、立上って歩きだした。それから声を低めた。
「鳶のこと、上山さんには、黙っといて下さい。」
「なぜだい。」
「びっくりさしてやりたいんです。」
捕れるものかと吉村は思ったが、李の言葉をそのまま取って、微笑ましい気持になった。そして君枝のところまでついて来た。
君枝の庭には、裏口に近い一隅に、黒い鶏が二羽飼ってあった。植木屋が黒い鶏の卵は特別に病人によいといって、小屋から鶏まで世話してくれたのだとか、君枝は云っていたが、それが、シャモの雑種なので、吉村は君枝に対するのと同じように親しみが持てない気持だった。ただ雄鶏の方は、黒羽の上に少し首筋にかかってる赤羽が、金色に光って綺麗だった。
李はその鶏の囲いを開いて、鶏を呼びながら連れてきた。鶏は広い芝生のなかを少しかけ廻り、縁側のところまで来て、投げやられた柿の皮をつついたりした。
「鶏のうちで、シャモが一番いかもの食いです。」と李は吉村に説明してから、君枝の方へ云った。「毛虫、まだいますか。」
「そうね、いるかも知れないわ。」
庭の片脇の大きな椿の木へ行って、李はしきりに見上げていたが、やがて巧みに登っていった。
君枝も下駄をつっかけてその方へ行った。
「どう……。あぶないわよ。」
上の方でがさがさやっていたところから、ふいに声がした。
「それ、ほうりますよ。」
「いやあ、だめよ、だめよ。」
びっくりするような甲高い声をあげて、君枝は走って逃げた。逃げながら笑っていた。
ぱらぱらと、青葉のついてる小枝が落ちてきた。ちょっと静かになって、中程の大きな枝に、李はぶらりと両手でさがり、あ、あぶない、と叫んで君枝が胸を押えた時には、李はもう地面に飛びおりていた。
コッコッコッコ……呼ばれて鶏が走ってゆき、椿の葉について虫を食べてるのを、李は満足そうに、君枝は安心したように、眺めてるのだった。
吉村は煙草を吸いながら縁端に腰掛けていた。椿の木の下から逃げだし、危いと叫んだ時までの君枝の様子が、珍らしいもののように眼に映ったのである。それは全く普通の女の動作にすぎなかったが、茶をのむ時の手附からちょっとした身振までが、へんにぎくしゃくした直線的な君枝であるだけに、普通の動作が却って目立ったのである。先日、初めて李と一緒に来た時の素振までも思い出された。先日は虚を衝かれた思いだったが、此度はなんとなく楽しく、彼女のために悦んでやりたい思いだった。
このぶんでいったら、彼女もだんだんよくなるだろうと、吉村は考えた。勿論それは病気のことではないし、何がどうよくなるのか彼にも分らなかったが、とにかく明るい気分が懐かれるのだった。
吉村は仕事を急いだ。仕事がすんだら二三日ゆっくり三人で遊び廻ってみたかった。
そうしたところへ、全然意想外なことが持上った。
ある夕方、食後の散歩に、三人で丘の方から街道へおりかかる時だった。
街道を、彼方から、正服の巡査と労働者らしい男とが、肩と肩をくっつけるようにして歩いて来た。双方から次第に近づいて、男は黒のジャケツに地下足袋で、どうやら半島人らしいと見分けられた。二人の姿は七八木の杉の木立に隠れたが、そこからまた現われかけたとたんに、男は二三歩走りだし、それを片手の捕繩で引戻されたものか、両腕をひろげ横向きになり、そこへ巡査の足払いが利いて、ばったり地面へ倒れた。倒れたが、すぐ四つ匐いになり、突然、吼えるような喚くような声で叫びだした。襟元を捉えて引起されかけても、彼は必死に大地へしがみつくような恰好で、その声は明らかに泣き叫びとなった。泣き叫びながら、片手と両足とで地面に※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いた。
自転車での通行人が立止り、村から人が走り出て行った。そしていつしか男は叫び声を呑み、じっと顔を伏せ、此度は両手を後ろに縛られながら、巡査の先に立って、人々の間を歩いて行った。それが、吉村たち三人のすぐ前をも通りすぎた。
後を見送って、しばらく無言で歩いた時、ふいに、君枝が李に尋ねた。
「あの男がさっき叫びだしたでしょう、あれどういう意味ですか。」
あまりに場合を得ない言葉だった。やや返事がなかった。
「僕は知りません。」
「別に意味はないでしょう。」と吉村も殆んど同時に云った。
「あの抵抗も無意味ですわね。……でも、卑怯ですわ。」
返事がなく、彼女はなお云い続けた。
「先生、そうお思いになりません。言葉の内容は民族によって大変ちがいま
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