すでしょう。」
吉村があやふやな返事で打消そうとしてるのを、彼女はお構いなしに考えを続けた。
「あの男だって、捕えられておいて、どうせ空巣ねらいか掻払いか、そんなことでしょうが、引き立てられてゆくところを、逃げ出そうとするなんて、卑怯じゃございません。また支那人なんか、なんでも、見当り次第のものを持ってゆこうとしますが、声をかけられると、そこに黙って置いていきますでしょう。これだって卑怯ですわ。けれど、その卑怯だという感じは、日本人だけのものかも知れませんし、支那や朝鮮にもやはり卑怯という言葉はございましょうし、結局のところ、言葉の意味というか、内容というか、それが違うのじゃないかと思われますの。民族の血の問題でございますわね。」
「そんなこと云ったら、外国人同士は話が出来なくなりますよ。」と吉村は笑ってしまおうとした。
「ええ、本当の話は出来にくいと思います。翻訳にしましても……。」
そして彼女は翻訳の話にはいっていったので、吉村はほっと息をついた。絶対に翻訳のむずかしい作品もあり、また比較的容易い作品もあるが、然し要するに完全な翻訳というものは不可能に近いという悲観論に、吉村はいい加滅相槌をうっていた。考えてみると、吉村自身、ちょっと外国文学を日本語に和訳したことがあるのだった。それはよいとして、彼女はまた李の方に尋ねかけたのである。
「あの男が叫んでた言葉は、ほんとにどういう意味でしょうね。」
もう吉村も李も返事をしなかった。そのまま消えた言葉は、なにか残忍な執拗なものを跡に残した。
宿に帰っても、吉村はそのことが変に気にかかった。
三
その翌日、夜になって、李が一人で吉村を訪ねて来た。
「明日、東京に帰ります。」と李は云った。
その顔を、吉村はじっと見ながら、彼に対して自然と心が開けるのが嬉しく、すぐに云い出した。
「昨日の、あのことだろう。そう気にしなくてもいいじゃないか。」
「気にはしていません。」
そして李はちょっと微笑した。
「損をしたという気がします。」
「へえー、損をしたって、分らんね。」
「よく考えてみると、半月ばかり損をしました。なんだか、上山さんが好きだったから……恋愛じゃありませんよ、ただ好きだったから、うかうか遊んでるうちに、勉強の方を、半月ばかり損をしていました。」
そして李はまた微笑した。
「それに気がついたというんなら、やはり昨日のことを気にしてるんじゃないか。君にも似合わないね。」
「いえ、ちがいます。こうですよ。僕は上山さんが好きでした。鳶を捕ろうとしていたのも、上山さんが鳶を飼ってみたいと云ったからです。先生の邪魔になると思ったが、上山さんを誘ってよく来ましたのも、上山さんと一緒にいたかったからです。御免下さい。」
「そんなの、一種の愛情じゃないか。」
「いえ、ちがいます。あの人、頭がよいでしょう。それにごまかされたんですね。一緒に遊ぶのが嬉しかったんです。ところが、あの人は、実は、頭がよいどころか、下等ですね。昨日、あの時、じっと僕の様子ばかり見ていました。先生は呑気だから気付かれなかったでしょうが、僕をじっと窺っていました。その視線を、僕は全身に感じました。ひがみではありません。あの人から見れば、朝鮮人はみな同じものだということになるようです。卑怯とかなにか、そういう言葉のことではありません。人間がみな同じになるらしいです。例えば日本人の乞食を見て、日本人はよその残り物を平気で食べるのかと、あらゆる日本人に云ったとします。腹が立つよりも、そんなことを云う人……そんな風に考える人を、下等だとは思いませんか。」
「下等というより……物が分らないんだね。」
「そうです、物が分らない、人間というものが分らないんです。」
吉村はそれに同感された。殊に乞食の話は胸にこたえた。
「それにしても、すぐ東京に帰らなくったって……近いうちに僕も帰るんだし、それまで待たないか。」
「東京でまた伺います。ただ、僕は、下等なあの人が好きで、半月も損をしたのが、残念です。腹を立ててやしませんよ。けれど、なにかはっきり、意思表示をしたいです。」
「そのため、すぐここを引上げるのかね。」
「そうでもありません。意思表示をして引上げたいですが、方法を考えてるところです。」
「それよりか、逆に、鳶でも生捕って、進呈して引上げるんだね。」
「ええ、鳶……鳶はいいですね。」
ぽつりと云われたその言葉が、なんだか淋しい響きだった。李はなにか空想するような眼付で、しばらく黙りこんだ。
やがて、どうしても明朝早く東京に帰るという李を送り出して、吉村は室に寝ころびながら、いろいろ彼のことを考え、また君枝のことなどを考えてるうちに、ふと、彼等二人の間の淡い……恐らくは無意識的な情愛とでも云え
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