特殊部落の犯罪
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)竈《へっつい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一歩|退《しざ》り

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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     一

「久七、お前が好きな物持って来ただよ。」
 晴々しい若い声と共に、表の戸ががらりと引開けられた。
 とっつきの狭い土間、それから六畳ばかりの室、その室の片隅に、ぼろぼろの布団の上へ、更に二枚の蓆をかけて寝ていたのを、むっくり上半身だけ起してみると、引開けられた四角な明るみから、つる[#「つる」に傍点]が飛び込んで来た。眼をぱちくりやってると、鼻先へ徳利をつき突けられた。
「何だかあててみろう。」
 揺る度びにどぶりどぶりと重い液体の音がして、ぷーんといい香がつっ走った。
「やあ……そうけええ。へへへ。」
 笑いくずれた口をそのままに、涎が垂れるほどあんぐり打開いて、震える片手を差出した。
「いけねえよ。燗をしてくれるから待っといで。冷てえのは毒だってよ。」
 と云ったがつる[#「つる」に傍点]は、何の気もなく徳利を敷居際に置いて、土間にぴょんと飛び下りると、向う向きになって竈《へっつい》に火を燃し初めた。
「野田さんとけえ坊ちゃんの草履を持っていくと、久七はちっとも来ねえがどうしただと、旦那さんが聞いていさしたよ。煩って寝てるちゅうと、一人者で困るべえって、その酒をくれさっしただ。おらが時々行って世話あしてるちゅうと、えれえほめられた。ええ旦那さんだなあ。お前《めえ》、有難えと思わなきゃ済んめえよ。」
 だが、久七はその言葉を聞き流しながら、のそりのそり匐い出して、上り口の徳利に取りつくと、喇叭飲みにごくりと一口喉へ流し込んだ。冷たい濃い重みのあるやつが、喉から胃袋から内臓へと、きゅーと泌み渡った。立て続けにも一口飲んで、徳利を膝の上に両手で握りしめたまま、口の中に残った香《かん》ばしい後味《あとあじ》を、ぴちゃりぴちゃりと舌鼓うった。
「あれ、もう飲んでるのけえ!」
 振り向いて頓狂な声でつる[#「つる」に傍点]が云うのを構わずに、更に一口ごくりとやると、つんと鼻にくる香りから舌重いこくの加減まで、かねて知ってる味だった。鰻や時には鼈《すっぽん》や、或は禁を犯して杜鵑《ほととぎす》など、肺病に利くという魚鳥を捕って持ってゆくと、いつも充分の金をくれた上に、樽からじかにコップへ注いで、野田の旦那が飲ましてくれる酒だった。土間の戸棚の上に置いてある、自分一人のだときまってる、ぶ厚な大きいコップを、久七は眼の前に思い浮べた。
「うむ……旦那が俺《おら》がことを聞いたか。」
 つる[#「つる」に傍点]が何とも答えないのを、彼は一人で云い続けた。
「一人者で困るべえって、それでこの酒をくれたか……。お前が世話あしてるちゅうのを、えれえほめて……うむ……。」
 涙がぽたりと落ちた。鼻がつまったのを、手の甲でちんとすすり上げて、徳利の酒をきゅーっと息の続く限り吸った。
「お前が世話あしてくれなきゃあ、俺死んじゃったかなあ……。」
 黒目の据った眼付でじっと見つめた。
 つる[#「つる」に傍点]は一歩|退《しざ》りながら、顔をふくらして竈の前に屈み込んだ。
「おらほめられるわきゃねえよ。家《うち》の祖母《ばあ》さが後生願えで、お前が可哀そうだからちゅうんで、おらに世話あさしてるだよ。おらが知ったこっじゃねえ。」
 久七はきょとんとした顔で、それでもなおじっと彼女を見つめた。紺の筒袖の着物に同じ紺の筒袖の半纒をつけ、胸高に兵児帯をきゅっとしめつけた姿が、開け放した入口から射す、夕暮の薄ら明りに浮出していた。竈の下にちろちろ燃えてる火が、頬の赤い黒目の澄んだ円顔に映り、艶々した黒髪にすっと流れていた。
「お前の髪毛は綺麗だなあ!」
 つる[#「つる」に傍点]はぴくりと肩を聳かしたが、くすりと忍び笑いをして晴々とした顔になった。
「お前にも分るけえ。……おらが髪は誰でもほめるだ。髪は女子《おなご》の宝だって、平吉が講釈で聞いたちゅうから、おらいつでもよく洗ってるだよ。平吉が椿の実いどっさり取ってきてくれるだから、それで洗うと艶が出るだよ。」
「ほう、椿の実でかあ……。」
 感心したように云ったが、左の掌で軽く撫で上げる彼女の髪を、なおしみじみと見惚れていた。が暫くして、思い出したように徳利をまた口へ持って行き、きゅーっと吸った残りの味を、舌でぴちゃぴちゃやりながら、鼻をうごめかした。
「おつる[#「つる」に傍点]坊!」小さな時からの呼び名を大声に口走って、一寸白眼を見張って続けた。「こっちい来てみろ。お前の髪毛どねえ匂いがするか。」
 振り向いたつる[#「つる」に傍点]の眼は急に険を帯びた。
「行くもんか。寄っつくと虱がうつるちゅうだから。」
 久七はにやりにやり笑っていた。彼女は眉根に皺を寄せて口を尖らせた。
「煩《わずら》ったらおとなしゅう寝てるもんだ。」
 彼女はあたりを見廻した。釜の湯は煮立っていた。室の隅の板敷の上に、白木の箱膳が散らかっていた。その中から竹皮包みの沢庵を取出して、大急ぎでぶっ切った。それから飯櫃の中を覗き込み、釜の湯を薬鑵に移した。
「飯がまだどっさりあるだから、湯うぶっかけて一人で食うがええ。」
 怒った声で云い捨てて、彼女はぷいと出て行った。
 久七はぼんやり彼女の動作を見守っていたが、一人になると、表の夕明りをじっと眺めた。それから俄に急《せ》き込んで、残りの酒を飲んでしまい、のっそり土間に下りてきた。ふらつく足を踏みしめて、外に出てみると、まだ陽が没したばかりのだだ白い明るみだった。
 家のすぐ前に、竹藪の下から湧き出る水が、泥深い池を拵えていた。その向う岸に、笹の間から椿の枝が伸び出して、黝ずんだ堅い実を幾つもつけていた。久七は竹の棒を取って来て、其処に屈み込んで息切れを押えながら、椿の実を叩き落した。落ちてくる円いやつが、一寸水に沈んでまたぽかりと浮いた。
 いい加減叩き落してから、池の上に浮いてるのを、棒の先でかき寄せようとした。その腰が伸びた拍子によろめいて、ぼちゃりと片足と片手とで池にはまった。ぶくぶくと泡《あぶく》が立つ泥の中にひょいと身を起すと、池は浅くて案外足元が泥の中にしっかりしていた。
 かき寄せた椿の実を[#「 かき寄せた椿の実を」は底本では「かき寄せた椿の実を」]両手にしゃくい上げて、池の中から匐い出した。足の泥を濁り水でじゃぶじゃぶ洗い落すと、ぶるっと身震いがした。
 嬉しくも悲しくもないきょとんとした顔付で、家の中にはいっていった。薄暗い中に、竈の下の燃え残りの火が赤く見えていた。両手の椿の実を上り口に置いて、沢庵を一度に二切れかじりながら、火の方へよろめき寄った。木の切株の腰掛へ臀を落付けて残り少ない火で股火をしてると涙がぼろぼろ流れた。

     二

 つる[#「つる」に傍点]は何だか落付かない様子だった。九分一《くぶいち》くらいの麦飯を焚いてる間にも、二三度表の方を覗きに行った。久七は古新聞紙の切端に包んだ物を寝床の横から取出して、上り口までのっそり起き出て来、彼女の様子を怪訝そうに見守っていた。
 飯がぐつぐつむれてる間、つる[#「つる」に傍点]が一寸上り框に腰をかけた時、久七は新聞紙包みを大事そうに差出した。
「これお前にくれてやるべえか。」
 云いながらにこにこ笑ってるので、つる[#「つる」に傍点]は一寸手を出さなかった。
「そうら!」
 投り出すはずみに紙が破けて、椿の実が転り出した。
 土間へ転り落ちそうなのを四つ五つ両手で押え止めながら、つる[#「つる」に傍点]は大きく見張った眼をくるりと動かした。
「こんな物《もん》何するつもりだね。」
「お前にその髪毛洗って貰うべえと思っただ。」
 つる[#「つる」に傍点]は首を縮こめて笑いだした。
「こんな青っぺえなあ、あくがあって駄目だあ。お前の髪洗うにゃよかべえ。……おらが拵えてやろ。」
 彼女は一寸考えてから、椿の実を包んで表へ飛び出した。
 久七は呆気にとられてぼんやりした。それから、くしゃくしゃな渋め顔をして首を垂れた。
 が、つる[#「つる」に傍点]は長い間戻って来なかった。池の実を[#「池の実を」はママ]石で割るらしい音が暫く続いて、それからひっそりとしたが、まだ戻って来なかった。久七はひょいともたげた首を傾《かし》げて、表の方に気を配りながら考え込んだ。その途端に、くすくすと忍び笑いの声がした。気のせいかも知れないのが、再度の忍び笑いに本当だと分った。
 久七は物に躓いたようにぎくりとした。上り口から匐い下りて、土間伝いに戸口へ近づき、半ば開き残されてる戸の節穴を探しあてて、其処からじっと覗いた。
 暮れてしまってるのに、月が出たのか茫と薄明るかった。四五本小杉が並んでる茂みの向うに、一塊りの黒い影が動めいていた。ひそひそ囁く声の間合に、擽ったそうな忍び笑いの声が洩れてきた。久七は石のように身を固くして、眼と耳とに注意を凝らした。が何もはっきりとは見えも聞えもしなかった。長い間のようだった。と、「いやあ」とはね返るような声がしてつる[#「つる」に傍点]が飛び出してきた。後から平吉の姿がのっそり出てきた。口に掌をあてていた。つる[#「つる」に傍点]はそれを振り向いて、首をひょいと縮めて「ふふふ」と笑ったが、急に両腕を大きく拡げて、彼の首っ玉へ飛びついていった。彼が何やら囁くと、強く首肯《うなず》いて離れた。あたりを見廻しながら立去ってゆく彼を、暫く見送っていたが、池の縁の石の上に叩き割った椿の実を、大急ぎにかき集めて、中へはいって来た。
 つめていた息をほっと吐き出すと共に、久七は戸の節穴から身を引いて、敷居の上へ飛び上りざま、其処の柱へつかまって屈んだ。眸を見開き口をうち開いていた。
 つる[#「つる」に傍点]ははいって来て、彼の顔色をじっと窺ったが、たまらなそうに身を揺った。
「うううう……。」そして漸く声が出た。「お前何しただ? 涎が垂れてるだぞう。」
 云われて初めて気付いたが、彼はそれを拭おうともせず、舌の先をつき出して唇をなめずった。そして彼女をじっと見つめた。
 つる[#「つる」に傍点]は不気味そうに後退《あとしざ》ったが、くるりと向うを向いて、手荒く其処らを片付けた。釜の飯を飯櫃に移し、薬鑵や膳椀を揃えた。そうする彼女のむっちりした肉附を――円っこい腕や、ぷりぷりしてる肩や、ぽっつり脹らんでる胸や、張りきってる臀や、歩く度にはずんでる股などを、久七は熱っぽい眼で見入った。釘抜のように力強い抱きつき方をした先刻の姿が、頭にはっきり浮んできて、眼がくらくらとした。
「おつる[#「つる」に傍点]坊、お前|幾歳《いくつ》かなあ?」
 思わず声が、それでもゆっくりと出た。
「十六だよ。」
 とんがった答えだった。
「うむ……十六けえ……。」
 見据えた眼を[#「 見据えた眼を」は底本では「見据えた眼を」]輝かして、四五歩にじり寄っていった。
「何するだ!」
 彼女はぎくりとして飛び退った。
「お前、俺が嬶に[#「嬶に」は底本では「嚊に」]なんねえか。」
 喫驚した円い眼をくるりとさして、次に彼女は笑い出した。
「ははは、お前でも嬶[#「嬶」は底本では「嚊」]貰うつもりかね。」
「俺愚図だが、これでなんだ、鰻や鼈ときたら、見つけたら最後逃したためしねえぞ。野田の旦那が日本一だちゅうてほめさっしたぞ。……俺お前が好きだあ。お前が来てくれるで、煩《わずら》ったのが有難えと思ってるだ。……椿の実いどっさり取ってくれるだぞ。」
「こんな青っぺえなあ駄目だあ、皮がはじけた黒えんでなきゃあ。」
「うむ、はじけたやつけえ、いくらでも取ってくれるぞ。俺もう何ともねえだ。」
 よぼよぼしてたのを、力籠めてすっくと立ち上った。
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