執拗な眼付をじっと見据えて、手先をわなわな震わしたが、顔の下半分がだらりと弛んで髯もじゃの※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]へたらりと涎が流れた。
つる[#「つる」に傍点]はぞっと立ち竦んだ。煤けたランプの光りが真赤だった。
「おつる[#「つる」に傍点]坊、俺平吉より強えぞ。」
額に皺を寄せて差出してる首を、きょとんと一つ打振ってみせた。
つる[#「つる」に傍点]は釘付にされたような足を一歩退る途端に、土間に転ってた椿の実を一つ踏えて、危く倒れそうになったのを、立ち直る拍子に思いついた。
「お前が強えたあ知ってるだが、頭が臭えから、これで洗ってみねえよ。」
先刻叩き割ってきた椿の実を、皮ごと土瓶に投り込んで、竈の上の自在鈎に掛け、上から水をじゃあと注ぎ込んだ。溢れた水が竈の焚き残しへ落ちて、ぱっと灰神楽が立った。
「煮立った後の湯で洗うだよ。」
気勢を挫かれてぼんやりつっ立ってる久七へ、彼女は尋ねかけた。
「お前ほんとに癒ったのかあ。」
「うむ。」と彼は首肯いた。
「じゃあおらもう来ねえよ、一人でやるがええ。」
口早に云い捨てながら、彼女は表へ駆け出してしまった。
久七は口と眼とをあっと開いて、その後姿を見送った。が暫くすると、にたにた笑いだしながら、竈に掛っている土瓶の方へ近寄っていった。
三
つる[#「つる」に傍点]は二三日姿を見せなかった。
久七はぼんやり家に閉じ籠っていたが、或る晩飯を済ましてからランプの火影に坐ってると、表から聞き馴れた声が響いた。
「久七、家に居るだかね。」一寸間が置かれてから「頭あ洗ったかね。」
それが、其晩のひっそりとした情景には余りに不意だったが、久七はびくともしなかった。幻のうちの彼女を見つめていた眼を、じろりと横目使いに、表戸の二三寸の隙間へ振向けた。黒い影がすっと掠めて、後はただ茫とした暗がりになった。
久七は暫く待った。蓬髪の頭をぶるっと振わせて、立ち上りざま呼んだ。
「おつる[#「つる」に傍点]坊!」
閉め切ってる破家《あばらや》のうちに響いた声が、すっと外へ筒抜けてしまって、後がしいんとなった。久七は駄々っ児のように身を揺《ゆす》っていたが、いきなり上り口の柱へしがみついていった。ねじまげた全身で柱へからみついて、べろべろ下唇をなめながら、力一杯に押し動かした。傾いてる軒端がゆらゆらとした。
やがてへとへととなって、其処へどっかと臀をついた。荒い息使いが静まると、額の汗が冷えてねっとりとしてるのを、掌で押し拭った。それからじっと腕を組んで、身動きもしなかった。
だいぶたってから、彼はふと思い出したように立上った。板の間の隅から、椿の実のはいってる土瓶を取出して、中の水を盥に空《あ》けた。両手でかきむしった頭に少しつけると、冷りとして飛び上った。薬鑵の中に少し残ってる微温湯《ぬるまゆ》をさした。手をつけてもなお冷たいのを、我慢して、ずぶりと頭を浸した。自棄《やけ》に両手で頭をおしこすって、その後で顔を洗った。手拭で拭き取ると、顔がつるつるとして、髪の毛がぬるぬるとしていた。その毛を後ろにかき上げ、一寸小首を傾げながら、にやりとした。
跳ねるような足取りで歩いて行き、表の戸をがらりと引開けた。出たばかりの月の光りが、横ざまに流れていた。物の影が長く地面に印していた。それを暫く物色していたが、向うの小形の茂みが眼にはいると、かっと唾をして戸を閉めた。ランプを吹き消して、寝床に匐い寄り、頭から布団と蓆とを被った。
いつのまにか眠った。
夢の中で――地面に横たわってる真黒な物影が、むくむく起き上るのが見えた。起き上ってしまうと、月の光りを受けて真白になった。それが皆真裸の彼女の姿だった。顔だけが見えなかった。乳房と腹と臀とが馬鹿げて大きかった。それが踊るような恰好で、両腕を拡げながら、がっしりとした力強さで飛びついてきた。がその度毎に彼はよろけて、よろけるはずみに、彼女――彼女等の腕の下をすりぬけた。それが我ながら腹立った。踏み止って彼女等の腕に捕えられようとしても、どうしても出来なかった。彼女等は四方から追ってきたが、その肌に触ることさえ出来なかった。……彼女等の踊りは益々激しくなった。しまいに一団の竜巻みたいになって、くるくる廻りながら遠ざかっていった。彼はその後を追っかけた。赤い頬辺《ほっぺた》が笑っていた。無数の手がこちらをさし招いていた。するうちにどしりと躓き倒れた……。
眼を開くと、室の中は真暗だった。破れ雨戸の隙間から、蒼白い光りが射し込んでいた。彼はそれをじっと眺めていたが、やがて胸をわくわくさしながら起き上って、そっと雨戸を細目に開いた。ぱっと明るい月夜だった。夜鷹が鳴いて飛び過ぎた。水の無い水田の黒い地面が遠くまで連って、霜とも露とも知れないものに光っていた。と、彼は俄に首を伸して見つめた。彼方の大きな藁ぼっちの、月の光りを受けない影の所に、二人の人影がくっついて蹲っていた。彼はなお瞳を凝らした。それから、歯をむき出してにっと微笑んだ。然しその狂気じみた笑顔が静まりかけると、俄に恐ろしい形相に変った。歯をくいしばってぶるっと震えた。
彼ははっと身を引いて、それから帯をしめ直した。表の戸からぬけ出した。
先刻の藁ぼっちへ見当をつけて置いて、遠廻りに忍び寄って行った。身を隠す影がない所は、田の畦の横を犬のように四つ匐いになった。霜柱がざくりざくりと砕けた。
東の空に昇った円い月の光りが、一面に漲り落ちていた。その光りを受けてる方面へ、彼は藁ぼっちに匐い寄った。息をつめて耳を澄すと、囁き声と忍び笑いの声とが、先夜の通りだった。彼は眼を輝かしながら、口をあんぐり開いて、そっと覗いてみた。一つになって屈み込んでる男女の姿がちらと見えた。瞬間に「あれえ」けたたましい女の声がした。
彼は喫驚してつっ立った。すぐ眼の前に、つる[#「つる」に傍点]と平吉とが月の光りを正面に浴びて立っていた。彼は驚きと恐れと怒りとで心が顛倒した。
「己《おのれ》、逃さねえぞ!」
叫んだのが声に出たかどうか、自分では知らなかった。いきなりつる[#「つる」に傍点]に飛びかかって、左脇にその首根をはさみつけ、右手で身を防ぐ構えをした。が平吉は一散に逃げ出した。彼はその後から投げつけてやるために、身を屈めて石塊か土塊かを探したが、あたりに見当らなかった。その身を屈める拍子に、小脇のつる[#「つる」に傍点]が声を立てずにびくりびくりと全身で震えるのを、なおぎゅっと腕に力を籠めた。そしてそのまま、ぶるぶるっと水からもぐり出る様な気味で、身を起しながらつっ立った。
一面に月の光りが流れてるきりで、見渡す限りひっそりとしていた。
「おつる[#「つる」に傍点]坊、もう逃しはしねえぞ!」
独語の調子でそう云って、久七はつる[#「つる」に傍点]を引きずりながら歩き出した。つる[#「つる」に傍点]の草履が足先からぬけ落ちて、其処に残った。
彼は熱に浮かされた眼を見据えながら、家の前まで辿りついた。表戸をがらりと引開けて、小脇のつる[#「つる」に傍点]を突き入れた。
「へえれよ。」
だが、彼女は土間にばたりとぶっ倒れたまま、棒のようになって動かなかった。久七はぼんやりそれを見下した。ふと屈み込んで引起そうとした。彼女の手足は硬ばって冷たくなっていた。額に手を当てると、底知れぬ冷たさがぞっときた。
彼は飛び上って、眼をある限り見開いた。ぶるぶると震え上った。
震えが止むと、彼はきょろりとあたりを見廻した。馳け出して出刄を取って来た。身構えをしたが、誰も来る者はなかった。しいんとした月夜だった。
彼はぽかんとして手の出刄を取り落した。上り口の柱にしがみつきながら、がっくり身を落した。そして、足下に横たわってる死骸と同じように、いつまでも呆けた不動のうちにじっとしてる――平吉が四五人の者を連れてやって来るまで、そしてその後までも。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「新小説」
1922(大正11)年2月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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