見張って続けた。「こっちい来てみろ。お前の髪毛どねえ匂いがするか。」
 振り向いたつる[#「つる」に傍点]の眼は急に険を帯びた。
「行くもんか。寄っつくと虱がうつるちゅうだから。」
 久七はにやりにやり笑っていた。彼女は眉根に皺を寄せて口を尖らせた。
「煩《わずら》ったらおとなしゅう寝てるもんだ。」
 彼女はあたりを見廻した。釜の湯は煮立っていた。室の隅の板敷の上に、白木の箱膳が散らかっていた。その中から竹皮包みの沢庵を取出して、大急ぎでぶっ切った。それから飯櫃の中を覗き込み、釜の湯を薬鑵に移した。
「飯がまだどっさりあるだから、湯うぶっかけて一人で食うがええ。」
 怒った声で云い捨てて、彼女はぷいと出て行った。
 久七はぼんやり彼女の動作を見守っていたが、一人になると、表の夕明りをじっと眺めた。それから俄に急《せ》き込んで、残りの酒を飲んでしまい、のっそり土間に下りてきた。ふらつく足を踏みしめて、外に出てみると、まだ陽が没したばかりのだだ白い明るみだった。
 家のすぐ前に、竹藪の下から湧き出る水が、泥深い池を拵えていた。その向う岸に、笹の間から椿の枝が伸び出して、黝ずんだ堅い実を幾つもつけていた。久七は竹の棒を取って来て、其処に屈み込んで息切れを押えながら、椿の実を叩き落した。落ちてくる円いやつが、一寸水に沈んでまたぽかりと浮いた。
 いい加減叩き落してから、池の上に浮いてるのを、棒の先でかき寄せようとした。その腰が伸びた拍子によろめいて、ぼちゃりと片足と片手とで池にはまった。ぶくぶくと泡《あぶく》が立つ泥の中にひょいと身を起すと、池は浅くて案外足元が泥の中にしっかりしていた。
 かき寄せた椿の実を[#「 かき寄せた椿の実を」は底本では「かき寄せた椿の実を」]両手にしゃくい上げて、池の中から匐い出した。足の泥を濁り水でじゃぶじゃぶ洗い落すと、ぶるっと身震いがした。
 嬉しくも悲しくもないきょとんとした顔付で、家の中にはいっていった。薄暗い中に、竈の下の燃え残りの火が赤く見えていた。両手の椿の実を上り口に置いて、沢庵を一度に二切れかじりながら、火の方へよろめき寄った。木の切株の腰掛へ臀を落付けて残り少ない火で股火をしてると涙がぼろぼろ流れた。

     二

 つる[#「つる」に傍点]は何だか落付かない様子だった。九分一《くぶいち》くらいの麦飯を焚いてる間にも、二
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