こくの加減まで、かねて知ってる味だった。鰻や時には鼈《すっぽん》や、或は禁を犯して杜鵑《ほととぎす》など、肺病に利くという魚鳥を捕って持ってゆくと、いつも充分の金をくれた上に、樽からじかにコップへ注いで、野田の旦那が飲ましてくれる酒だった。土間の戸棚の上に置いてある、自分一人のだときまってる、ぶ厚な大きいコップを、久七は眼の前に思い浮べた。
「うむ……旦那が俺《おら》がことを聞いたか。」
 つる[#「つる」に傍点]が何とも答えないのを、彼は一人で云い続けた。
「一人者で困るべえって、それでこの酒をくれたか……。お前が世話あしてるちゅうのを、えれえほめて……うむ……。」
 涙がぽたりと落ちた。鼻がつまったのを、手の甲でちんとすすり上げて、徳利の酒をきゅーっと息の続く限り吸った。
「お前が世話あしてくれなきゃあ、俺死んじゃったかなあ……。」
 黒目の据った眼付でじっと見つめた。
 つる[#「つる」に傍点]は一歩|退《しざ》りながら、顔をふくらして竈の前に屈み込んだ。
「おらほめられるわきゃねえよ。家《うち》の祖母《ばあ》さが後生願えで、お前が可哀そうだからちゅうんで、おらに世話あさしてるだよ。おらが知ったこっじゃねえ。」
 久七はきょとんとした顔で、それでもなおじっと彼女を見つめた。紺の筒袖の着物に同じ紺の筒袖の半纒をつけ、胸高に兵児帯をきゅっとしめつけた姿が、開け放した入口から射す、夕暮の薄ら明りに浮出していた。竈の下にちろちろ燃えてる火が、頬の赤い黒目の澄んだ円顔に映り、艶々した黒髪にすっと流れていた。
「お前の髪毛は綺麗だなあ!」
 つる[#「つる」に傍点]はぴくりと肩を聳かしたが、くすりと忍び笑いをして晴々とした顔になった。
「お前にも分るけえ。……おらが髪は誰でもほめるだ。髪は女子《おなご》の宝だって、平吉が講釈で聞いたちゅうから、おらいつでもよく洗ってるだよ。平吉が椿の実いどっさり取ってきてくれるだから、それで洗うと艶が出るだよ。」
「ほう、椿の実でかあ……。」
 感心したように云ったが、左の掌で軽く撫で上げる彼女の髪を、なおしみじみと見惚れていた。が暫くして、思い出したように徳利をまた口へ持って行き、きゅーっと吸った残りの味を、舌でぴちゃぴちゃやりながら、鼻をうごめかした。
「おつる[#「つる」に傍点]坊!」小さな時からの呼び名を大声に口走って、一寸白眼を
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