だそうだった。でその夜彼は僕と連れになって、或はそいつの化けたのじゃないかと疑って、初めは用心して口も碌に利かなかったが、愈々堰の近くへ来たので、一つためしてやれという気で小便をしてみた。化物ならば一緒に小便をすることはない。が人間ならば大抵一緒に小便をするというのだ。
「お前さんが小便をしてくれたで、わしも安心しただよ。」
そして彼は僕にいろいろ話しかけて、何処から来てどうして遅くなったかなどと聞いて、僕が尋ねようとしている友人の家を実はよく知ってるので、その家の前まで送っていってやろうと云い出した。どうせ化物に乗っかられる覚悟だったからと云って、その空車に乗ってゆけとも勧めてくれた。
僕は何だか狐にでもつままれたような心地がしたが、それでも気持は落付いてきて、杉の古木が七八本立並んでる物凄い堰のわきをも、大して恐ろしい思いをせずに通り過ぎた。
それにしても、夜道を連れ立って歩いていると、普通の人間である限りは、一人が小便をすればも一人も大抵小便をするというのは、一寸面白いじゃないか。君にもその気持が分るかね。
なに、分らないが面白いって、初めて僕の話に興味を持ち出したね。じゃあこんどはそんな下卑たんじゃなくて、もっと上品なのを話してきかせよう。が先ず、煙草を一服さしてくれ給え。
四
これは前の話からずっと後で、僕が大学卒業に近い時のことだった。
その頃僕は各方面に生長し続けていて、云わば生活機能が最も盛んに活動していた。夜遅くまで酒を飲み廻ったり、旨い物を探し歩いたり、時には女を買うこともあるし、また真剣に恋文を書きもするし、一方では真面目に勉強もして、あらゆることに好奇心が持てた。身体も至極丈夫だった。
その年の夏の休暇に、卒業論文を書きに、僕は或る山奥の淋しい温泉へ行った。所が卒業論文なんてなかなか厄介なもので、初めはなに訳はないと高をくくっていたのが、いざとなると非常に手間取れて、九月になってもまだ半分も書けていなかった。で僕は八月一杯で帰る予定だったのを延して、九月末まで滞在することにした。どうも東京に帰ってもまだ暑いし、学校の講義は十月にはいってから気が乗り出すのだし、九月一杯はその山奥に落付いてる方が得策だった。そうきめてしまうとまた呑気になって、少しずつ論文を書き続けながら、ゆっくり構え込んでいた。
所が二十日頃、僕は電報で東京へ呼び戻された。――サカモトシススグカエレ、というのだ。坂元というのは僕の親友で且つ畏友だった。非常に頭の冴えた男で、その年大学の哲学科を卒業したのだったが、文芸なんかに対しても、専門の僕以上に深い見解を持っていた。平素病身ではあったが、肋膜炎をやったというだけで、どこといって特別の病気はなさそうだった。それが死んだというので、僕は少なからず驚かされた。後で分ったことだが、八月末から腸チブスにかかってぽっくり逝ってしまったのだった。
僕は坂元のことをいろいろ考えながら、すぐに帰京の仕度にかかった。電報は午後の四時頃ついたのだから、それから仕度をして出発すれば、夜の最終列車に乗れる筈だった。所が間の悪いもので、前日の豪雨のために山道が破損して、漸く通っていた俥までが不通だという。それじゃ歩いてやれという気になって、草鞋ばきで提灯の用意をして出かけた。荷物は後で宿屋から送って貰うことにした。
温泉から停車場までは五里の下り道で、六時少し過ぎに出かけたのだが、十時近くの列車までには向うへ着ける自信があった。溪流に沿った物凄い山道ではあったが、僕はこうして君に夜道の話をしてきかしてるくらいだから、そんなことには馴れていて平気だったし、それに月もやがて出る筈だった。
僕はすたすたと、前日の豪雨に洗われた山道を下っていった。途中で真暗になって一寸提灯をつけたが、やがて東の山の端に大きな月が出て来た。溪流の音が深い谷間に響き渡っている。暗い木影から出る毎に、薄靄の上に蒼白い月の光の流れてる谷間の景色が、眼の下にすぐ見渡される。そのあたりから冷々とした夜気が匐い上ってくる。九月末といえば山奥ではもう秋なんだ。秋の月夜の景色は実に凄いような美しさだった。
然し僕はその景色をゆっくり眺める隙はなかった。十時の列車に乗り後るれば、一晩後れることになるのだった。爪先下りの曲りくねった道を、出来るだけ足を早めて下りていった。所々に崖崩れがしていた。
そして凡そ半分くらい、温泉から二里半ばかり行った所に、一軒の掛茶屋があった。八時少し前の時刻だったが、山の中の八時と云えばもう真夜中も同然で、茶屋の婆さんは里へ下りたと見えてしんとしていて、閉め切った表戸に腰掛が一つ片寄せてあった。僕は一寸一休みするつもりで、その腰掛を拝借して煙草を吸った。掛茶屋があるくらいだから見晴らしのいい場所で、横向きに首を差出して眺めると、向うの山から下手の谷間まで、月の光で一目に見渡された。対岸の涯には夜目に仄白い滝が掛っている。
僕はその景色に暫く見とれていた。すると、僕の横をすたすた通り過ぎた者がある。はっとして振向くと、若い女が一人で見向きもせずに通って行ったのだった。白足袋に草履を結いつけたその足先に、提灯の火がちらちらとさして、それが間もなく向うの曲り角に見えなくなってしまった。後はひっそりした静かな夜で、月が照っており溪流の音が響いてるばかりだった。
僕は夢でもみたようにぼんやりしていたが、だいぶたってから変にぶるぶるっと身震いがした。恐ろしさとも苛立ちとも分らない気持だった。……後で気付いたことなんだが、温泉から僕は一人の人にも出逢わなかったし、追い越した者も追い越された者もなかったのだ。それから推して考えると、彼女は僕より後に温泉を発って僕を追い越してしまったのか、またはどこか遠くの道からやって来たかに違いない。が、何れにしても変である。
然しその時僕はそんなことは考えもしなかった。秋の夜の山道で若い女から追い越された、その一寸名状し難い感情で一杯になっていた。何だかやけくそのような気持で立上って、足早に歩き出した。
五六町も行ったかと思う頃、その女が道端の岩角に腰掛けていた。ぼーっとした提灯の火を側にして、月の光を斜め半身に受けて、顔を外向けているその様子が、もうずっと前から其処に坐り通してるような風だった。僕は何だか息がつけず石のように固くなって、ちらと見やったまま通り過ぎた。彼女は見向もしなかったらしい。
それから暫く行くうちに、全く意外な気持が僕に湧いて来た。こんどは僕の方が一休みして彼女を待っていてやらなければならない……なぜそうだかは分らないが、兎に角待っていてやるのが当然だ、という気持だった。まあ彼女に強く心が惹かれたのだ。が誤解しちゃいけない。彼女にどうのこうのって、そんな普通の意味でじゃなくって、全く字義通りの意味で心を惹かれたのだ。第一僕は彼女の顔だって一度も見なかったし、その様子で若い女だと感じただけのことじゃないか。
で、その気持が次第に強くなってきて、やがて僕は月の光のさしてる岩角に腰掛けて待ち受けた。すると、喫驚するくらい早く彼女はやって来た。それから足をゆるめて、膝の上にもたせた片手に下げてる提灯の方を見い見い、僕の顔は見ないで、少し震えを帯びた声で云い出した。
「あの……済みませんが、提灯の火を貸して下さいませんか。躓いたはずみに消してしまいましたので。」
そんなことだろうと前から思っていた、という気が僕はその時した。当り前のことのようにマッチを取出して火をつけてやった。そのぱっとした光で僕は初めて彼女の顔を見た。普通の……美しくも醜くもない顔立だったが、大きな束髪の下に浮出したその艶のない真白さが、何だか異様に感ぜられた。
それから僕達は、二人共めいめい提灯を下げて連れ立って歩き出した。
「何処まで行かれるんですか。」
「麓の町まで参ります。」
それだけで二人共黙り込んでしまって、提灯の火に足許を用心しながら、すたすた歩き続けた。道は真暗な木影にはいったり明るい月の光の中に出たりした。
そして一里ばかり行った頃、彼女は先刻躓いた足が痛むと云い出した。で僕は彼女の手を引いてやらなければならなかった。しまいには彼女の腕を取って、抱えるようにして歩いた。
「私何だか昔、こんな風にして誰かに連れられて、夜道をしたことがあるような気が致しますの。」
しみじみした調子で彼女は云った。そう云われると僕も何だか、昔そういう風にして夜道をしたことがあるような気がしてきた。然し腕を抱えられてるのは僕の方で、相手はその女じゃないし、道もそのあたりではなかった。誰だったろう、何処だったろう、そんなことがしきりに考えられた。
そのうちに、初め温く柔かだった彼女の腕が、だんだん硬ばって冷くなってきた。
「どうかしたんですか。」
彼女はただ頭を振っただけで何んとも云わない。いろいろ尋ねてみたが、どうしたことか彼女は一言も口を利かないで、頭を打振るばかりである。僕は変に不気味になり出して、それかって彼女を放り出すわけにもゆかないで、とっとっと足を早めると、彼女は足が痛いと云ってるくせに、後れがちにもならないでついてくる。僕もしまいには黙り込んでしまって、木か石をでも引張って歩いてるような気持になった。
そのうちに、道が次第に平になって、彼方のなだらかな山麓に、停車場やそのまわりの小さな町の燈火が、月光に煙ってぼーっと見え出してきた。もう安心だと思うと、急に気がゆるんだせいか、足が重くて仕方がなくなった。
ふと気がついて、彼女の方はと思って振向くと、不思議なことには、現在自分が腕を抱えて連れて歩いてた筈の彼女が、影も形も見えなかった。おや、と思ったとたんに、ぞーっと髪の毛が逆立った。そして僕はもう夢中になって駆け出した。
何が仕合せになるか分らないものだ。夢中に駆けたために僕は、危く乗り後れる所だった列車に間に合った。それにしても、あの女のことはいくら考えても今以て分らない。まさか狐につままれた訳でもないだろうし……。
なに、全く狐につままれたような話だって、それはそうには違いないが、僕に残ってる印象はそんな他愛もないものではないんだ。がまあそんなことはいいや、こんどはもっと変梃なのを聞かしてあげよう。一寸煙草を一服吸ってから……。
五
これはつい二三年前のことなんだ。僕は変に生活に退屈を覚えだして、毎日こつこつとつまらない仕事をしてるのが、味気ない生き甲斐のないことのように思えて、何かこうぱっとした明るい異常なものがほしくなっていた。
僕の二階の窓から、青桐の茂み越しに、すぐ隣家の座敷が見下せた。縁側に萎れかけた軒葱《のきしのぶ》の玉を一つ吊して、狭苦しい薄暗い室の中で、四十歳ばかりなのと十四五歳ばかりなのとが、多分母と娘とであろうが、夏の暑い中を毎日せっせと縫物をしていた。夜になると、口髭を生やした男がそれに加わって、誰の子か四五歳の男の子供まで出て来て、みんなで物を食ったり話をしたりしていた。その光景が電燈の光にぱっと輝らし出されるので、猶更ちっぽけな惨めなものに見えた。
所が、そういう隣家の生活を二階の窓から見てる感じが、自分自身の生活にもふと映ってきた。妻や子供と一緒に食膳に向ってる時、机によりかかって仕事をしてる時、縁側に寝転んで新聞を読んでる時、女中達まで皆で集って子供に花火をあげてやってる時、其他いろんな時に、ふとした心の持ちようで、今に屋根の何処かに穴があいて、そこから誰かに覗き込まれるとしたら、自分のこうした生活がどんなにちっぽけな憐れなものに見えるだろう、……と思うと自分がその誰かになって、自分で自分の生活を高い所から覗いてるような気持になり、何んだか惨めで見すぼらしくて嫌になってしまうのだった。
そこで僕は考えたのだ。高い所から人の住居を覗き込むと、どんな立派な生活でも惨めに見えてくる。所が一歩戸外に踏み出すと、街路にうろついてる乞食までが、どこかこう晴れやかなのびやかな影を帯びてい
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